鎌倉幕府

表記について
概要
時を源平の争乱前に戻し、源頼朝に焦点をあててみましょう。頼朝は諸国に支配権を及ぼして鎌倉幕府を確立しました。幕府の成立年には諸説ありますが、幕府の成立を一定の時点に結びつけること自体無理と言えます。むしろ1180~85年を幕府の成立期とし、1192年に臨時政府を開ける征夷大将軍の就任をもって、名実ともに成立したと考えたいと思います。

鎌倉幕府の成立

全国に及ぶ支配権

源頼朝は天皇の血筋を引き、源義朝の遺児のなかでも年長でした。
反平氏の際には、血筋ゆえに頼朝のもとに東国の武士が結集しました。
1180年、頼朝は挙兵して、相模国さがみのくに鎌倉を根拠地に勢力を強めました。

源頼朝

鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう
(鎌倉にある、源氏ゆかりの場所)
1183年(平氏の敗走後)、寿永二年十月宣旨A
当時、争乱や飢饉で東国の荘園・公領からの税納入が停滞
朝廷は頼朝に税納入を保証させ、代わりに東国の実質的な支配を許可
1185年の平氏滅亡後、後白河上皇は頼朝を恐れ、源義経に追討を命じました。
頼朝は先んじて都に軍を送り、後白河に義経追討の命令を出させました。
加えて頼朝は、追討のために後白河から次の2つの権利を得ました。
頼朝の支配が西国にも及びました。―B

源義経

名実ともに幕府成立

源頼朝に追われた源義経は、奥州藤原氏の藤原秀衡ひでひら を頼りました。
秀衡の死後、子の藤原泰衡やすひらは頼朝を恐れて義経を自殺に追い込みました。
頼朝は義経をかくまったことを理由に、奥州藤原氏を滅ぼした。

藤原秀衡
後白河上皇の死後、1192年に頼朝は征夷大将軍に就任しました。
名実ともに鎌倉幕府が成立し(ABを経て機構は既に存在)、以降の鎌倉幕府の滅亡までの時代を鎌倉時代と呼びます。


幕府の支配体制

封建制度―土地を介した主従関係

将軍(頼朝)は開発領主(田地開墾に及んだ土着の軍事貴族や有力農民)と主従関係を結びました。
将軍と主従関係を結んだ者を御家人と呼びます。

御恩(将軍が御家人に与える恩恵)

本領安堵
先祖伝来の田地の支配を将軍が保障すること
新恩給与
新たな田地を将軍から与えられること(平家没官領へいけもっかんりょうなどから分与)
平家没官領
平氏に寄進された大量の荘園群で、平氏滅亡後に朝廷に没収され、全て頼朝に付与

奉公(御家人が将軍に与える恩恵)

戦時
軍役
平時
京都大番役(京の警護)・鎌倉番役(鎌倉の警護)

中央の機構(初期の幕府)

他機関と異なり、裁判を司る執権の長官は、機関の決定権(訴訟の裁決権)なし
訴訟の裁決権は将軍にあり、それゆえに他の長官と異なる名称

地方の機関

守護

諸国に1人置かれ、国の治安維持や地頭の指揮統率を担当しました。
有力御家人が任命され、基本的な権限は大犯三ヵ条と総称します
大犯三ヵ条
地頭に京都大番役の催促/謀叛人の逮捕/殺害人の逮捕

地頭

公領・荘園に置かれ、現地で直接支配をおこない、名主からの徴税を担当しました。
知行国主・荘園領主が朝廷関係者の場合(上図)
将軍が源頼朝の頃、朝廷関係者の力はまだ強く残っていました。
地頭は公領で将軍と受領の、荘園で将軍と荘園領主の2元的支配を受けました。

地方の機関

公領・荘園からの収入は、幕府の経済的基盤となりました。
関東知行国
将軍の知行国
関東御領
平氏から没収した荘園を含む、将軍を荘園領主とする荘園群