概要
平清盛ら平氏一族の勢力は全盛を迎え、国家をほとんど意のままに動かすことになりました。しかし同時に反平氏の激しい反発を招き、やがて全国的な争乱に発展することになります。争乱は源氏VS.平氏の戦いとして一般的に認識されますが、それは一面に過ぎません。源氏以外にも寺院や各地の軍事貴族が平氏に対して挙兵しました。
表記について

内乱と平氏の滅亡

あわただしい遷都

1180年、安徳天皇が即位すると、反平氏の気運はますます高まりました。
後白河上皇の 以仁王  源頼政 に促されて、全国の源氏に挙兵を呼びかける命令文書 令旨 を発しました。
以仁王の挙兵自体は失敗に終わりましたが、その波紋は全国に広がりました。
令旨
親王などの命令文書
宣旨
天皇(天皇の意を伝える朝廷)の命令文書
院宣
上皇(院)から天皇・朝廷への命令文書

以仁王
平清盛は敵対する寺院から離れるため、また、専制体制を固めるため、摂津国の 福原京 へ遷都を決めました。
平氏一族内からも新都反対の声が強く、数ヶ月で平安京に都を戻しました。
「治承四(1180)年水無月の比、にはかに都遷り侍りき。」(鴨長明かものちょうめい方丈記 ほうじょうき』)
都を戻した後、平重衡たいらのしげひらは反平氏の興福寺・東大寺を焼打ち(南都焼打ち)

内乱の開始

1180年、以仁王の挙兵は失敗しましたが、各地の源氏に動きが見られました。
平治の乱で伊豆国に流刑された 源頼朝 、信濃国で勢力を広げていた 源義仲 が挙兵しました。
6年にわたり、 治承・寿永の乱 と呼ばれる全国的な争乱が続きました。
源頼朝
挙兵した初の合戦で敗れ、敵方の梶原かじわら景時の情けで生存

源義仲

平氏の都落ち

1181年に起きた2つの出来事で、平氏の基盤は弱体化しました。

清盛の高熱
1183年、源義仲は北陸の倶利伽羅峠くりからとうげの戦いで平氏を破りました。
平氏は平安京を離れ、安徳天皇とともに西国へ向かいました。

倶利伽羅峠の戦い

安徳天皇とともに都を離れる平氏
都入りした義仲とその家人の評判は悪化の一途を辿り、やがて孤立しました。
その間、源頼朝は後白河上皇と交渉して寿永二年十月宣旨を得て、朝廷への税納入を保証する代わりに東国の実質的な支配を許可されました
後白河は宣旨を出すことで、源頼朝に義仲打倒を期待しました。
当時、争乱や飢饉で東国の荘園・公領からの税納入が停滞
頼朝の弟源範頼のりより 源義経 は、宇治川の戦いで 源義仲 を討ちました。

宇治川の戦い

平氏の滅亡

源氏は1184年、摂津国の一の谷の戦いで平氏を破り、さらに1185年、讃岐国の 屋島の戦い でも平氏を破って追い込みました。

一の谷の戦い

屋島の戦い

屋島
1185年、源氏は長門国の 壇の浦の戦い で平氏を滅亡させました。
安徳天皇は壇の浦の戦いの際に、三種の神器のうち宝剣と勾玉を抱えて入水

壇の浦の戦い

三種の神器

壇の浦(関門海峡)の銅像
自称天皇!?―長浜天皇
壇の浦の戦いで平氏は滅亡しましたが、今日でも平氏の子孫と称する人は少なくありません。第二次世界大戦後、安徳天皇の子孫と称する天皇が現れました。長浜ながはま 天皇こと長浜豊彦は硫黄島いおうじま (鬼界ヶ島!?)に住み、戦後に現れた他の自称天皇とは、一線を画す風格をもっていました。子孫かどうか真偽は不明ですが、硫黄島には安徳が島で最期を迎えたとの伝説があります(下図:安徳の墓)。幼年で壇ノ浦に入水した安徳には、生存説が創られるほどの魅力があったのでしょう。