概要
南北朝の動乱は1392年に終結、当時の将軍は足利義満でした。義満は動乱の最中に北朝から権限を接収し、南北朝の合体後には幕府を全国的な統一政権としました。また、朝廷から権限を奪うと同時に、有力な守護の勢力削減に努めました。義満の頃に確固たる将軍の権力や幕府の機構が確立され、幕府は全盛期を迎えました。
将軍権力の確立
全国的な統一政権
3代将軍足利義満は、以下のことをおこない、室町幕府を全国的な統一政権としました。
室町
幕府の名は、義満の邸宅「花の御所」が、京の室町通りに面したことに由来
3代将軍足利義満
(在職1368~1394年)
朝廷の権限の接収
北朝から朝廷の権限を接収しました。
- 京都の市政権
- 段銭の徴収権
- 棟別銭の徴収権
棟別銭
諸国の戸別に、その棟数に応じて臨時で徴収する税
南朝の勢力の圧倒
南朝の勢力を圧倒していきました。
九州探題の今川了俊(今川貞世)に、南朝の懐良親王
率いる九州の勢力を平定させました。
今川了俊
今川氏の歴史を伝える『難太平記』の著者
今川了俊(貞世)
懐良親王をいただく菊池氏が中心となった南朝勢力を次第に圧迫し、動乱平定の契機をつくった。軍事・学問・和歌などあらゆる才に恵まれたが、却って義満に疎まれた。『太平記』の誤りを正すことを目的に『難太平記』を著す。
南北朝の合体
1392年、南北朝の合体が実現しました。
北朝の権力はすでに幕府のものになっていました。
室町幕府は全国的な統一政権に発展しました。
弱きを挫き、強きをも挫く
足利義満は朝廷の権力を接収するとともに、有力な守護の勢力削減に努めました。
相続問題などで挑発して反乱を起こさせ、理由をつけて討伐しました。
1390年、
土岐康行の乱
美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる土岐康行の討伐事件
1391年、
明徳の乱
「六分一殿」と称された山名氏清の討伐事件
1399年、
応永の乱
強い海上勢力を誇った大内義弘の討伐事件
応永の乱
乱後、大内氏は一時衰退するが、後に日明貿易の利益で再興
将軍引退後、義満は太政大臣就任・出家し、なお実権をふるい続けました。
義満の死後、朝廷が天皇の名目上の父として太上法皇の称号を贈ろうとするほどでした。
足利義満(3代将軍)
南北朝の合体、勘合による日明貿易の開始を実現して、室町幕府の全盛期を築きました。
日明貿易の開始に際して、冊封体制に入り、「日本国王」に認められました。
室町幕府の機構と基盤
幕府の機構
室町幕府の職制
中央の機構
管領は①将軍の補佐②侍所・政所など諸機関の統括③将軍の命令の伝達を勤めました。
足利氏の分流である細川・斯波・畠山の3氏が交代で任命され、これら3氏は三管領と総称されます。
侍所は①京都市中の警備②刑事裁判を司り、長官は所司と呼ばれました。
京極・山名・赤松・一色の4氏が交代で任命され、これら4氏は四職
と総称されます。
地方の機構
国の治安維持のため、守護が諸国に1人ずつ置かれたが、原則的に京都に滞在しました。
守護は、任国に守護代を派遣して代わりに統治させました。
東国支配のなかで鎌倉は特に重要視され、鎌倉府が置かれました。
鎌倉府の長官は鎌倉公方と呼ばれ、足利尊氏の子足利基氏が初代に就任し、以降世襲されました。
鎌倉公方の補佐は関東管領と呼ばれ、上杉氏が世襲しました。
鎌倉公方の権限は強く、後に京都の幕府と対立、また鎌倉公方・関東管領同士も対立しました。
足利基氏(初代鎌倉公方)
足利尊氏の4男。関東の文化興隆に努めました。
直轄軍
幕府は直轄軍である奉公衆を組織しました。
軍事以外で、奉公衆は将軍の直轄領である御料所を管理しました。
幕府の財政基盤
- 段銭・棟別銭(田地・戸別に掛かる税)
- 津料・関銭(船・人馬の通行税)
- 御料所からの収入
- 土倉役・酒屋役(質屋と酒造の営業税)
- 貿易(日朝貿易・日明貿易など)
土倉
質屋と高利貸を兼ねる業者(呼称は質物を保管する倉庫に由来)
酒屋
酒造業と高利貸を兼ねる業者(呼称は酒造業を営むことに由来)
土倉