概要
足利尊氏が持明院統の光明天皇を即位させると、朝廷は2つに分裂して、南北朝の動乱と呼ばれる長い対立が始まりました。やがて室町幕府が内紛に荒れると、南北朝の対立はより複雑に、そして激しくなっていきました。対立は3代将軍足利義満の時に解消しましたが、対立が諸国の守護・地頭に与えた影響は大きいものでした。
南北朝の動乱
室町幕府の成立
1336年、足利尊氏は持明院統の光明天皇を立て、また、幕府の政治方針を明らかにした建武式目を発表しました。
室町幕府が事実上成立しました。
建武式目
「Q&A」で幕府の所在地などに回答する形式
室町幕府の基本法典は御成敗式目で、追加した条文を建武以来追加と呼称
三つ巴の離合集散
幕府・北朝側
1338年、足利尊氏が征夷大将軍に就任しました。
尊氏は弟足利直義と幕府の政務を分担しました。
尊氏は軍事指揮を担当し、直義は裁判を担当しました。
やがて直義と執事の高師直が対立しました。
1350~52年、観応の擾乱
直義と、尊氏の支持を得た師直との激突に端を発し、幕府内部に留まらず、南朝・北朝の対立も巻き込んだ争乱
南朝は観応の擾乱で当初直義に協力し、息を吹き返しました。
擾乱後も、尊氏派(幕府)・直義派・南朝の者が離合集散を繰り返し、抗争は10年余り継続しました。
南朝側
楠木正成・新田義貞の戦死後、北畠親房を中心に抗戦しました。
しかし、壊滅寸前まで追い込まれました。
南朝は観応の擾乱で当初直義に協力し、息を吹き返しました。
擾乱後も、尊氏派(幕府)・直義派・南朝の者が離合集散を繰り返し、抗争は10年余り継続しました。
動乱の収束
南北朝の動乱は、足利尊氏の孫で3代将軍足利義満の頃に収束に向かいました。
1392年、南朝の後亀山天皇が皇位を放棄し、天皇が北朝の後小松天皇1人となったことで、南北朝の合体が実現しました。
動乱が長引いた背景
動乱が長引いた背景には、次の2つが挙げられます。
- 全国的に対立が増加
- 相続のあり方が変化(分割相続から単独相続へ)
一方が北朝側につけば、他方は南朝側につくという有様でした。
鎌倉時代
鎌倉時代末期~室町時代
動乱による社会変動
守護の権限拡大
守護は、鎌倉幕府が各国に置いた治安維持担当の役職です。
南北朝の動乱で各地の武士が力を伸ばすと、武士を統括・動員するために、従来①のみであった守護の権限に、次の②~④が追加されました。
守護の権限
- 大犯三ヵ条(京都大番役の催促・謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕をする権限)
- 刈田狼藉を取り締まる権限
- 使節遵行
(幕府の裁判の判決を強制執行する権限)
- 半済令で認められた、国内の荘園・公領の年貢を半分徴発する権限
刈田狼藉
田地をめぐる紛争時、所有権を主張して稲を一方的に刈り取る実力行為
半済令
1352年の発布時点では、近江国・美濃国・尾張国の3国のみ有効で、期限も1年限りであったが、後に全国的に、そして期限なしに変化
鎌倉時代以降、地頭が荘園・公領の年貢納入を怠り始めていました。
守護の力の増大にあわせ、年貢徴収を守護に請け負わせる守護請が始まりました(地頭の消滅)。
室町時代の守護は、受領の権限を奪って国全体の支配権を握るなど、鎌倉時代と力が大きく異なりました。
室町時代の守護を守護大名とも呼びます。
国人の登場
地頭だった武士は守護に役割を奪われ、国人と呼ばれる存在に変質していきました。
国人は守護の家臣になるか、国人同士で国人一揆を結んで守護に抵抗しました。
一味同心
国人一揆に臨む前の、神仏に誓約して一致団結した状態