寛永期の文化

表記について
概要
寛永文化とは、寛永期(1624~43年)前後に桃山文化を受け継ぎつつ新しい傾向が見られたことに由来します。例えば、日光東照宮のような権現造からは、桃山文化の絢爛豪華な趣を感じ取れます。また一方で、江戸時代を通じて発展する儒教的な文化や、元禄文化に発展する琳派の先駆けなど、新しい傾向も見られます。

学問と文芸

朱子学の受容

鎌倉時代、儒学の一体系で朱熹しゅき(朱子)に構築された朱子学が、日本へ伝来しました。
朱子学は君臣くんしん父子ふしの別をわきまえ、礼節・上下秩序を重んじる学問です。
教えのなかで、特に大義名分論は後醍醐天皇に影響を与えました。
大義名分論
君臣の間には不変の秩序があり、これは守られるべきとする考え
室町時代、桂庵玄樹は肥後の菊池氏・薩摩の島津氏に招かれて朱子学を講じ、南村梅軒は土佐で朱子学を講じて谷時中が確立した南学の基礎を築きました。
桂庵玄樹
薩南学派の祖で、薩摩で朱熹しゅき の『大学章句』を刊行
安土・桃山時代から江戸時代初頭、禅僧であった藤原惺窩せいか が、朱子学の教育に努めました。
江戸幕府・諸藩は、現状の秩序維持を目的に朱子学の受容を決めました。
藤原惺窩に推挙されたことで、その門人羅山らざん は徳川家康に用いられ、秀忠・家光・家綱と4代の侍講じこうを務めました。
林羅山は幕府の命で、子の鵞峰がほうとともに歴史書『本朝通鑑 つがん 』を完成させました。
林羅山の子孫は林家と呼ばれ、彼の子孫は代々儒者として幕府に仕えました。

藤原惺窩

林羅山

朱子学の受容の問題

朱子学は上下秩序を重んじる学問です。
大義名分論に厳密に従えば、幕府が朝廷を差し置いて実権を握る状態は本来否定されます。
江戸幕府はこの問題を棚に上げて朱子学を受容しました。
江戸時代を通して朱子学の研究が深まると、この問題が表出しました。
幕末、朱子学を基盤に天皇家を尊ぶ思想「尊王そんのう論」が強まり、倒幕運動へ発展しました。

文芸の発展

俳諧

京都の松永貞徳が、連歌から独立した俳諧(俳諧連歌)を指導しました。
松永貞徳の俳諧の一派は、貞門派と呼ばれます。
俳諧
連歌から用語の制限を取り払い、滑稽な要素を加えたもの

松永貞徳

仮名草子

教訓・道徳的な話を題材とした仮名書きの小説仮名草子が成立しました。

建築と美術作品

建築

権現造

豪華な装飾彫刻を施した、先祖の霊をまつる建物霊廟れいびょう建築が流行し、桃山文化の継承が見られます。
霊廟建築の代表的な建築様式は権現造ごんげんづくり でした。
権現造の代表例は、徳川家康を祀る霊廟建築日光東照宮です。
日光東照宮
参詣のため、幕府が直轄する日光道中で江戸と連絡

権現造

日光東照宮

数寄屋造

書院造に茶室の趣向を加えた建築様式数寄屋造すきやづくり が確立されました。
数寄屋造の代表例は、京都の桂離宮です。

桂離宮

桂離宮

絵画

狩野派

狩野派から狩野探幽が幕府の御用絵師となり、代表作に『大徳寺方丈ほうじょうふすま絵』があります。
その子孫は様式の踏襲に努めたため、画風は創意を欠きました
狩野探幽の門人で、後に破門された久隅守景くすみもりかげ は、代表作に『夕顔棚納涼図屛風』を残しました。

『夕顔棚納涼図屛風』

謎の絵師と絵画の新様式

俵屋宗達たわらやそうたつ は、土佐派の画法をもとに絵画の新様式を生み、元禄文化で発展した絵画様式琳派りんぱの創始者とされます。
俵屋宗達の代表作は、『風神雷神図屛風』です。

『風神雷神図屛風』

工芸

多才な文化人

本阿弥光悦は書道・陶芸・蒔絵まきえで優れた作品を残しました。
本阿弥光悦の代表作は、『舟橋蒔絵硯箱ふなはしまきえすずりばこ』です。

舟橋蒔絵硯箱

磁器

文禄・慶長の役で諸大名によって連れてこられた朝鮮人陶工により、朝鮮式の焼物やきもの技術(登窯のぼりがま 絵付えつけ)が伝わりました。
日本初の磁器である肥前の有田ありた を始め、九州・中国地方で磁器が生産されました。
有田の陶工酒井田柿右衛門は、上絵付うわえつけ の技法で赤絵を完成させました。

柿右衛門の作品