概要
幕藩体制は、人口の大多数を占める百姓の負担で支えられました。百姓は村に住み、村全体で共同して作業にあたって税を領主に納めました。全国の村は共通点をもつ一方で、1つ1つ個性的でもありました。このような村に対する存在として、城下町の町人地を構成する町が挙げられます。町もまた、多様な特徴をもち、非常に複雑でした。
村と百姓
近世の村の形成
豊臣政権下での全国的な検地太閤検地は、惣村の境界の画定村切
もおこない、惣村の分割・消滅を促しました。
また、中世末以来新田開発が急速に進み、新しい村が生まれました。
17世紀末、全国には6万3000余りの村が存在しました。
村の構造
村の大半は、農業を主とする農村であったが、漁村・山村、あるいは定期市などを中心に村が都市化した在郷町もありました。
村は一つ一つ個性的であったが、ほぼ共通する特徴も見られました。
共通する村の特徴|構成員と税
村の構成員と階層
村の構成員は、次のように大別されます。
漁村には、経営者・労働者の関係をもつ網元・網子という階層あり
厳密には、僧侶・神職などの宗教者や職人なども構成員に含まれる場合あり
村の構成員
年貢と諸役
田・畑を所持するため、本百姓には主に次の5種類の課税がありました。
- 本途物成
土地の総生産量石高を基準に米で納める年貢
通常石高の40~50%の米を納入
上記の比率の決め方は、当初その年の収穫に応じた検見法
で、後に一定期間は同じ比率を続ける定免法に変更
- 小物成
山野河海の利用や農業以外の副業などに掛かる税
- 国役
河川の土木工事などの労働
- 伝馬役
街道での公用交通で使う人馬を差し出す負担
- 助郷役
公用交通で不足した人馬を差し出す負担(街道近辺の村に住む場合)
村全体で負担し、人馬を徴発された村を助郷
と呼称
本百姓の①~⑤の負担は、個人ではなく村全体で一括して負担しました。
このような負担の方法を村請制を呼びます。
本百姓が5戸で編成する五人組は、年貢納入などに連帯責任をもち、村請制を支えました。
村請制
共通する村の特徴|村の運営
村は、本百姓から選出した次の3役村方三役(村役人)が運営しました。
- 名主(庄屋)
村の長にあたり、村政全般を担当
- 組頭
2~3人から成る、名主の補佐役
- 百姓代
2~3人から成る、名主・組頭の監査役
運営は村法(村掟)に基づいておこなわれ、違反には背くと村八分などの制裁がありました。
村請制と村政運営
治安維持や入会地
(山・野原などの共同利用地)の管理は村で共同して担いました。
その経費は村入用
と呼ばれ、村の構成員で負担し合いました
。
多大な労力を要する田植えなどに、共同で取り組むことを結
(もやい)と呼称
幕府の農村政策
年貢・諸役の徴収を確実にするため、幕府は以下の政策をおこないました。
1643年、
田畑永代売買の禁止令
富農への土地集中と本百姓没落を防止
1643年、
田畑勝手作りの禁
たばこ・木綿・菜種など商品作物の自由栽培を禁止し、百姓が貨幣経済に巻き込まれて没落することを防止
1649年、
慶安の触書
百姓の日常生活の心得などを細かく指示
1673年、
分地制限令
分割相続による田畑の細分化を防止
慶安の触書
32ヵ条からなる法令の総称で、存在を疑問視する説が有力
町と町人
城下町と地区
近世、多数の都市が現れ、特に城下町が中心都市でした。
城下町は将軍・大名の城郭を核とし、次のような地区に分けられました。
- 武家地
政治・軍事の施設があり、家臣団・足軽らが居住する地区
- 町人地
商人・手工業者などが居住し、経営・生産をおこなう地区
- 寺社地
寺院・神社が集められ、領内の宗教統制の機能をもつ地区
城下町の簡易モデル
町人地の構成と税
町人地には、自治組織をもつ共同体町が多数存在しました。
町の住民は町人と総称され、次のように大別されます。
- 家持
自分の宅地と家をもち、町の運営に参加できる者
- 地借
借りた宅地に家を建てて住む者
- 店借(借家)
家やその一部を借りて住む者
家持は町人足役という夫役を負い、清掃・防災などに努めました。
町政運営
町の運営
町は、名主(町年寄)と総称される家持の代表が、町法(町掟)に従っておこなった。