概要
幕藩体制は、1~3代将軍が大名らの統制などに取り組むことで確立され、4代将軍徳川家綱の頃には安定期へ入りました。小さなことで揺らがずに政治を運用でき、実際、幼将軍の就任や牢人問題は、それほど大きな影響がありませんでした。明暦の大火でも、従来の方針を踏襲することで人心の安定を図ることを第一義としました。
4代将軍の治世
幼将軍の就任
1651年、3代将軍徳川家光が死去しました。
徳川家光の子徳川家綱が11歳で4代将軍に就任しました。
徳川家綱は幼将軍のため、叔父で会津藩主の保科正之に補佐されました。
上記は、将軍の幼弱に関係なく、幕府を運用できる体制ができていたことを意味
徳川家綱
戦乱期から40年
社会問題①
大名と旗本は、跡継ぎを作れないと改易されました。
跡継ぎを作らず、死に際して養子を急に取ることは末期養子
の禁止で禁止され、これによる改易で、多くの武士が仕える主君を失い、牢人となって路頭に迷いました。
社会問題②
社会秩序が安定すると、規範に収まりきれない血気ある者が突出しました。
奇抜な姿で勝手に振る舞うかぶき者となり、頻繁に騒動を起こした。
かぶき者
幕政批判の事件と善後策
1651年、
由井正雪の乱(
慶安の変)
兵学者由井正雪を首謀者とする、牢人らの幕政批判の反乱未遂事件
由井正雪
幕府は、牢人発生の原因である改易の減少に努めることになりました。
幕府は、50歳未満の大名と旗本に限り、末期養子の禁士を緩和しました。
牢人対策とともに、かぶき者の取締りを強化
江戸の火災
1657年、明暦の大火で江戸城の一部と市街が燃えました。
道幅の広い広小路や定火消と呼ばれる消防組織を設置しました。
明暦の大火の範囲
曰く付きの振袖で出火!?―明暦の大火
火災に慣れた江戸の人でも、「明暦の大火」には度肝を抜かれました。一説によれば、出火原因は振袖
だと言われる。ある娘が恋する男性への思い半ばで死に、娘の振袖は別の娘に渡りました。しかし、その娘も死に、また振袖を手にした娘も…。結局、振袖は寺で焼かれることになりましたが、途中突風で舞い上がり、振袖についた火で江戸を焼きました。大火後の復旧で幕府の財政が傾くなど、歴史上、この事件のもつ意味は大きいものです。
成人した4代将軍の政策
成人した4代将軍徳川家綱は、次の①~④の政策をおこないました。
- 1663年、武家諸法度(寛文令)
- 1663年、殉死の禁止
主君の死後、家臣があとを追って自殺することを禁じ、跡継ぎに奉公することを義務化
これは、家臣が主君個人ではなく主君の家に仕えるということ、
つまり、「主君の家-代々主人」「家臣の家―代々家臣」という不動の主従関係を確立
下の者が上の者にとってかわる下剋上の風潮は消滅
- 1664年、領知宛行状(領地の確認文書)の発給
領地は将軍が与えているものと強調し、その権威を再確認
- 1664年、幕領の一斉検地
幕府の財政収入の安定化を意図
個人に仕える家臣(左)・家に仕える家臣(右)
同時代の諸藩
諸藩の取り組み
諸藩は、平和による軍役の減少と1641~42年の寛永の飢饉の影響で、17世紀半ばから藩政の安定と経済発展を図りました。
次の①~④の諸藩では、大名が儒学者(朱子学者)を用いて改革を図りました。
1662年、明の亡命政権が消滅し、清が中国統一
『大日本史』
尊王を基本とした朱子学の大義名分論で貫かれる歴史書
幕末の水戸藩の思想や運動に影響
徳川光圀(別称:水戸黄門)
『大日本史』で天皇の神格性を説き、神聖な天皇に政権を委ねられた幕府の正当性も同時に説こうとしました。光圀は、この歴史書が倒幕運動に影響するとは思いもしませんでした。
光圀自身はドラマでよく知られますが、全国行脚の事実はなく、フィクションに過ぎません。