概要
5代将軍徳川綱吉は、暗殺事件を契機に政務を統轄する老中の権限を抑え、側用人の設置など自らの手に幕政を掌握しました。綱吉の政治は、儒教(朱子学)に基づく政治「文治主義」で、仏教・神道に基づく政策もおこないました。これらの政策には綱吉の様々な素養を見て取れるが、貨幣改鋳・生類憐れみの令で悪政と評されます。
5代将軍の治世
側用人の設置と台頭
1680年、4代将軍徳川家綱が病没しました。
徳川家綱の弟徳川綱吉が5代将軍に就任しました。
徳川綱吉
当初の補佐役は、大老の堀田正俊でした。
後に堀田正俊が老中らの勤務部屋(将軍の居室の
傍)の近くで殺され、万が一に備え、この部屋を将軍の居室から遠く離れた場所に移しました。
これによって、将軍と老中の間を取り次ぐ役職側用人
が設置されました。
将軍の側に仕え、取り次ぎをする側用人は、時に政務に介入する力をもちました。
特に側用人の柳沢吉保は、堀田正俊の死後の補佐役を務めました。
柳沢吉保
朱子学に影響された政策
朱子学の重視と第1条の文言
徳川綱吉は朱子学を重視し、朱子学者木下順庵に学びました。
綱吉は、朱子学が説く主君への忠、父祖への孝、社会規範を意味する礼で秩序を安定させようとしました。
木下順庵
1683年、
武家諸法度(
天和令)
第1条の文言は「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」
従来の第1条の文言は「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」
孔子廟の設置
綱吉は、林家の私塾聖堂学問所が付属する湯島聖堂を建て、また、幕府の最高教育官大学頭
に林鳳岡(林信篤)を任命した。
湯島聖堂
朝廷の重視
朱子学の本来の教えに従えば、朝廷を重んじることが秩序の在り方です。
綱吉は朝廷政策を改め、儀礼復興と天皇家の領地禁裏御料の増加を決めた。
忠と法の矛盾
1701年、
赤穂事件
赤穂藩主浅野長矩が吉良義央
に恥辱を受けたとして、赤穂藩浪士らが吉良を討った事件
浪士らの起こした騒動を、「忠」で評するか「法」で裁くかで一悶着
神道に影響された政策
1684年、
服忌令
近親者に死があった時、忌引や喪
に服す日数を設定
仏教に影響された政策
1685年、
生類憐みの令
捨子や生類殺生などを禁止する保護法令の総称
犬は極端な保護対象とされ、野犬の横行減少に効果あり
大事な「御犬様」―徳川綱吉
疑問の余地もありますが、生類憐みの令は、跡継ぎの子を求める綱吉に、僧が「生類を愛し、戌年生まれの綱吉は特に犬を大事にすること」と助言したためと言われます。
犬食や野犬被害の減少に一役買いましたが、人々は悪令と呼び、廃止を大変喜びました。
財政難と貨幣改鋳の「出目」
幕府の財政は、次の①②で破綻に追い込まれました。
- 支出増:1657年の明暦の大火後の江戸復興費用
- 収入減:鉱山の金銀産出量の減少(徳川綱吉の治世期以降)
綱吉は、勘定吟味役の荻原重秀が意見した収入増の方策を採用しました。
荻原重秀は、小判の金含有率を減らすことで、より多くの小判鋳造を可能にしました。
「出目(改鋳差益金)」は幕府の財政を一時潤しましたが、貨幣価値の下降と物価の上昇を招き、人々の生活を苦しませました。
元禄小判
6~7代将軍の治世
わずか3年の将軍在職
1709年、5代将軍徳川綱吉が死去しました。
綱吉の養子徳川家宣が6代将軍に就任しました。
徳川家宣は、側用人間部詮房と朱子学者新井白石を信任し、政務を任せました。
新井白石
6代将軍に講義した内容を歴史書『読史余論』に整理
徳川家宣
新井白石
3歳の将軍と朱子学者の政策
1712年、6代将軍徳川家宣は、在職3年で死去しました。
家宣の子徳川家継が3歳で7代将軍に就任しました。
徳川家継
新井白石が、正徳の治
と呼ばれる次の政策をおこないました。
- 閑院宮家の創設、将軍と皇女の婚約
天皇家との関係を強化し、将軍個人の幼弱に影響されない将軍職の権威を確立
- 丁重すぎた通信使の待遇の簡素化
- 朝鮮からの国書に記す将軍の称号を「日本国大君」から「日本国王」に変更
- 正徳小判の鋳造
物価上昇の抑制に、慶長
小判と同じ金含有率(84.3%)の小判を鋳造
- 1715年、海舶互市新例の発布
金銀が長崎貿易で大量流出したため、年間の貿易額と貿易隻数を制限
清船は年間30隻(1688年の70隻から)、オランダ船は年間2隻
通信使
対馬藩で朝鮮との外交を担当した儒学者雨森芳洲
は、待遇の簡素化を批判
正徳小判