宝暦・天明期の文化-学問と思想

表記について
概要
8代将軍徳川吉宗が漢訳洋書の輸入制限を緩和し、西洋の学術・知識が日本に流入しました。これらはオランダ語を通じて学ばれ、蘭学と総称されました。外から内へ流入が起きる一方、外来思想の影響を受ける前の、日本古来の思想を古典から探ろうとする気運が生じました。国粋を重視するこの動きは、幕末の攘夷運動にも影響しました。

和洋の学問

洋学

18世紀初め、次の書物で西洋のわずかな学術・知識が、ごく一部の人にのみ伝わりました。
華夷通商考
西川如見じょけんが長崎で見聞した海外・通商事情の地理書
西洋紀聞きぶん
新井白石が屋久島に潜伏した宣教師シドッチ訊問じんもんし、得た知識をもとに歴史・世界情勢を記述した書
采覧異言さいらんいげん
『西洋紀聞』と同様に新井白石が訊問で得た知識をもとに地理を記述した書

シドッチ
1720年、8代将軍徳川吉宗漢訳洋書輸入制限を緩め、また、青木昆陽野呂元丈らにオランダ語を学ばせました。
日本での西洋の学問(洋学)はらん学として発展し、また、実用的な面が強いものでした。

医学

山脇東洋
人体内部を観察し、日本初の解剖かいぼう図録『蔵志ぞうし 』を著した人物
杉田玄白前野良沢りょうたく
西洋医学の解剖書『ターヘル=アナトミア』を翻訳し、全5巻の『解体新書』を著した人物たち
宇田川玄随うだがわげんずい
オランダの内科書を翻訳し、『西説内科撰要せいせつないかせんよう』を著した人物
杉田玄白
翻訳の苦心談を『蘭学事始ことはじめ』で記述

杉田玄白

左図を参考にした『解体新書』

物理学

平賀源内
長崎で学び、摩擦発電機の実験・不燃性の布の作成などをした人物

エレキテル

その他

大槻玄沢おおつきげんたく
玄白・良沢に学んで、蘭学の入学書『蘭学階梯かいてい 』を著し、また、蘭学教育のための私塾芝蘭堂しらんどう を開いた人物
稲村三伯いなむらさんぱく
オランダ人ハルマの『蘭仏辞書』を翻訳し、最初の蘭日辞書『ハルマ和解』を著した人物

『ハルマ和解』
科学技術を先取りした非常の人―平賀源内
平賀源内は、幼少から掛軸に細工を施し、長じて本草学・蘭語・医学・油絵を学び、どの分野でも異才を発揮しました。発明品のエレキテル・火浣布などは、実用化と結びつかず、源内の評価を二分します。最期は殺人の容疑から投獄され、獄中死しました。杉田玄白は「非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」とその死を嘆きました。

国学

元禄期、『万葉代匠記まんようだいしょうき』の著者契沖けいちゅうが、日本古典の考証的研究を進めました。
18世紀、古典の研究が進み、日本古来の精神を説く学問国学が成立しました。
国学は、儒教・仏教(儒仏)を外来思想として排除する傾向が強く、批判的精神も強い学問でした。

国学者

荷田春満かだのあずままろ
古語・古典研究で、儒仏の影響を受ける前の日本思想の解明を試みた人物
賀茂真淵かものまぶち
春満の門人で、『万葉集』の研究を通して日本古来の精神の復活を主張した人物
本居宣長もとおりのりなが
真淵の門人で、国学を大成して古事記伝』を著し、「漢意 からごころ」を批判した人物
はなわ保己一ほきいち
幕府の援助で、教授・文献収集をおこなう学問所和学講談所を創設し、また、『群書類従ぐんしょるいじゅう』の編修・刊行をおこなった盲目の人物


思想の発展

尊王論

幕藩体制の中の天皇を王者として尊ぶ思想を尊王そんのう と呼びます。
尊王論は元来「朝廷を尊ぶことで、天皇の委任で政権を預かる将軍・幕府の権威を守ろう」という思想だが、後に「“王者”の天皇が“覇者(武力での支配者)”の将軍に勝る」という尊王斥覇に変質し、討幕に繋がりました。
水戸藩の『大日本史』編纂事業を通して興った学問水戸学は尊王論が強く、朱子学を軸に国学・神道を総合して天皇尊崇と秩序の確立を説き、尊王斥覇の考えが主流でした。
尊王論…主張者は、諸国を遊説した高山彦九郎ひこくろう、陵墓荒廃を嘆いた蒲生君平がもうくんぺい、『日本外史』を著した頼山陽らいさんよう
朝廷が実際に政権委任を強調したのは、1863年の14代将軍徳川家茂いえもちの時

尊王論と事件

1758年、宝暦事件
公家に尊王論を説いた国学者竹内式部の追放事件
1767年、明和事件
尊王斥覇を説き、幕政腐敗を強調した兵学者山県大弐やまがただいに が死罪、無関係の竹内式部も流罪となった事件

生活に密接な思想

庶民的生活倫理

18世紀初め、京都の町人石田梅岩ばいがん が儒学に仏教・神道を取り入れ、庶民の生き方を説く学問心学を創唱しました。
また、石田梅岩は『都鄙とひ問答 』を著し、四民の人間的平等、商業の必要と利潤の正当性を訴えました。
石田梅岩の教えは、手島堵庵てじまとあん・中沢道二どうに よって全国に広められました。

手島堵庵と心学の聴講者

社会への根本的批判

18世紀半ば、「生産労働者=被支配者」という構造を基盤とする社会を、根本から批判し、それを改めようとする意見が現れました。
例えば、八戸はちのへの医者安藤昌益しょうえき は『自然真営道しんえいどう 』を著して、武士が農民から搾取せず、万人が耕作して生活する世の中を理想と主張しました。

安藤昌益