建武の新政
後醍醐天皇の親政
後醍醐天皇の帰京
光厳天皇の廃位、年号を建武に改号、親政の開始
建武の新政の機構
親政の理想
醍醐天皇・村上天皇の治世
親政の混乱
「二条河原落書」に描かれる
親政の問題
恩賞の不公平(公家に厚い)
天皇の綸旨で土地所有権の確認
武士の不満高まる
武家政権の再興を望む声
足利尊氏の挙兵
1335年、
中先代の乱
北条高時の遺児北条時行が鎌倉を占領した事件
鎮圧に向かった足利尊氏が、後醍醐天皇の親政に反旗を翻す
南北朝の動乱
南北朝の動乱
南北朝の対立
1336年、足利尊氏が光明天皇を擁立し、後醍醐は吉野へ
北朝(京都の朝廷、持明院統)
南朝(吉野の朝廷、大覚寺統)
室町幕府の開設
1336年、足利尊氏が
建武式目を制定
幕府の基本方針
1338年、足利尊氏が征夷大将軍に就任
二頭政治:
足利尊氏(兄)
軍事指揮、高師直ら新興勢力の支持
足利直義(弟)
行政・司法、鎌倉時代以来の伝統的勢力の支持
1350~1352年、
観応の擾乱
足利直義と、尊氏の支持を得た高師直との激突に端を発し、幕府内部に留まらず、南朝・北朝の対立も巻き込んだ争乱
南朝の抵抗
後醍醐天皇の死去
北畠親房の抵抗
室町幕府の安定
1371年、九州探題に今川貞世(了俊)赴任
九州全土を制圧
南北朝の合体
1392年、南朝の
後亀山天皇が、北朝の
後小松天皇に譲位
南北朝の合体
守護の権限の変遷
鎌倉時代
大犯三ヵ条(京都大番役の催促、謀叛人の逮捕、殺害人の逮捕)
*『御成敗式目』第3条
南北朝の動乱期=守護の権限拡大
刈田狼藉の取締り権
半済令(1352)
荘園・公領の年貢の半分を守護が徴発する権限を付与
1年限りで3国限定、のちに永続化して全国に適用
守護請
守護が荘園や公領の年貢徴収を領主より請け負う
室町幕府の安定
3代将軍足利義満の政治
義満は武家・公家両方に君臨
将軍就任(1368)・太政大臣就任(1394)
京都室町に邸宅(花の御所)を造営(1378頃)
室町幕府の由来
南北朝の合体を実現(1392)
有力守護の勢力削減
1390年、
土岐康行の乱
美濃・尾張・伊勢の守護土岐康行の討伐
1391年、
明徳の乱
「六分一殿」と称された守護山名氏清の討伐
1399年、
応永の乱
中国・九州地方の守護大内義弘の討伐
室町幕府の機構
管領(将軍補佐)
三管領(細川・斯波・畠山)が交替
所司(侍所長官)
四職(赤松・一色・山名・京極)が交替
守護
原則在京して幕府に出仕(任国支配は守護代が代行)
奉公衆(将軍直轄軍)
御料所(将軍直轄領)の管理も担当
室町幕府の職制
室町幕府の経済基盤
分一銭
徳政令で債務破棄の代わりとして徴税した手数料