ナポレオン戦争

表記について
概要
フランス革命に典型的に見られるように、西欧では革命を通じて国民主権の思想が定着し、近代国家は国民意識をもつ人々で構成した「国民国家」という形で確立しました。ナポレオン戦争は、中・南・東欧の諸民族に影響を与え、19世紀の国民国家形成の契機となりました。

フランス革命の終結

革命の行方

1795年憲法に基づく、ブルジョワ勢力中心の政府総裁政府 が成立しました。
革命で既に利益を得た有産市民や農民は、社会の早期安定を望みました。
一方、総裁政府の下での革命の後退を阻止するため、バブーフ が私有財産の廃止を主張し、政府転覆を計画しました。

ナポレオンの登場

1796年、ナポレオンはイタリア派遣軍司令官としてオーストリア軍を破り、名声を高めました。
以降、ナポレオンは諸外国の干渉から革命を守る防衛戦を指揮しました。
1815年まで続くこの戦いはナポレオン戦争と呼ばれ、次第に侵略戦争へと変質しました。
1798年、ナポレオンはイギリスとインド の連絡を断つために、オスマン帝国支配下の エジプト に遠征しました。
ロゼッタストーン
1799年、エジプト遠征中にナポレオン軍の兵士が発見した石板
ヒエログリフ 神聖文字)解読の手がかり
布告文が神聖文字・民衆文字・ギリシア文字 で併記

統領政府の成立

1799年、イギリスが他国と第2回対仏大同盟を結成し、フランス国境を脅かしました。
この状況をうけ、総裁政府はフランス国民の支持を失いました。
1799年、ブリュメール18日のクーデタ
ナポレオンが総裁政府を倒し、3人の統領による統領政府を立てた出来事
ナポレオンは第一統領として権力を掌握
統領政府の成立をもって、1789年以来のフランス革命が終結
誰が英雄か-ベートーヴェン
音楽家ベートーヴェンの交響曲第3番のタイトルは、「英雄」です。ベートーヴェンは、フランス革命でヨーロッパの旧体制が崩れ、音楽にも新時代が到来すると考えました。革命に熱狂し、その理念の体現をナポレオンに期待して献呈する交響曲を作曲したそうです。曲のタイトルは「ボナパルト交響曲」です。しかし、ベートーヴェンは、ナポレオンが皇帝ナポレオン1世として即位したことを知ると、怒りをあらわにして献辞が書いてある表紙を破り取ったそうです。ナポレオンへの献呈が取り止めになった後、曲は今のタイトルに改題されました。なお、自筆総譜の表紙には、穴が空くほど激しく消した跡が見えます(下図)。以上のような経緯があり、「英雄」が誰であるかは今も判明していません。
交響曲第3番の自筆総譜の表紙

皇帝ナポレオン

第一帝政の開始

第一統領のナポレオンは、革命をめぐって対立した次の勢力と和解し、フランスの安全を確保しました。
また、ナポレオンは次の内政に取り組みました。
1802年、ナポレオンは終身統領となりました。
そして1804年、ナポレオンは圧倒的支持をうけ、ナポレオン1世として皇帝となりました。
皇帝となった ナポレオンは、革命暦を廃止しました。
ナポレオンの戴冠式
「ナポレオンの戴冠式」

ナポレオン戦争の変質

1805年、イギリスはナポレオンの皇帝就任を警戒し、第3回対仏大同盟を結成しました。
フランスは大同盟との戦いを展開しました。

対イギリスの経済作戦

1806年、ナポレオンはイギリスとヨーロッパ諸国の 通商断絶を目的に、ベルリン 大陸封鎖令 を出しました。

侵略戦争への変質

1805年、トラファルガーの海戦
ネルソン の指揮するイギリス海軍が、ナポレオン軍の艦隊に勝利
1805年、アウステルリッツの戦い
フランスがオーストリア・ロシアの連合軍に勝利
1806年、フランスは西南ドイツの領邦を保護下に置き、ライン同盟 を結成しました。
結果、多くの領邦が神聖ローマ帝国から離脱したため、神聖ローマ帝国皇帝が地位を放棄し、神聖ローマ帝国 が消滅しました。
1807年、ティルジット条約
フランスがプロイセン・ロシアの連合軍を破って結ばせた条約
プロイセンが広大な領土を喪失
ナポレオンが旧ポーランドにワルシャワ大公国 を建国

権威の絶頂

ナポレオンは兄弟を各国の王位につけました。
また、ナポレオン自身はオーストリアのハプスブルク家の皇女と結婚し、一族の地位を高めました。

征服地の反乱気運

ナポレオンの被征服地では、征服によって改革が進む反面、強い民族意識が生まれました。

スペインでの出来事

スペイン では、フランスの支配に対する抵抗運動が起こり、民衆が処刑されました。
画家ゴヤ が「1808年5月3日」でナポレオン軍の残虐行為を表現
1808年5月3日
「1808年5月3日」

プロイセンでの出来事

フランスの占領下、思想家フィヒテ が、「ドイツ国民に告ぐ」を発表し、国民意識を高めました。
また、シュタイン ハルデンベルク が農民解放などの改革をおこないました。

ナポレオンの敗北

1812年、ナポレオンは大陸封鎖令 を無視したロシア に遠征をおこないました。
この遠征はロシアの作戦に阻まれ、失敗に終わりました。
この遠征失敗を機に、諸国はフランスからの解放戦争に臨みました。
1813年、ライプツィヒの戦い
ナポレオンがプロイセンなどの連合軍に敗北した 戦い
1814年、諸国にパリを占領され、ナポレオンは退位してエルバ島に流刑されました。
ルイ16世の弟ルイ18世 が王位につき、ブルボン朝の王政が復活しました。
しかし、1815年、ナポレオンはパリに戻り、皇帝に復位しました。
1815年、ワーテルローの戦い
ナポレオンがイギリス・プロイセンなどの連合軍に完敗
戦い後、ナポレオンは南大西洋のセントヘレナ島 に流刑