フランス革命

表記について
概要
フランスは、アメリカの独立戦争に際して植民地側を援助しました。これにより政難に陥ったフランスでは、聖職者や貴族への課税が議論されました。しかし、議決方法が特権身分に有利であったため、会議は紛糾しました。第三身分(平民)が平等な議決方法を定めた憲法制定を主張し、フランス革命が迎えられました。

フランス革命の前史と開始

第三身分の不満

フランス革命以前のフランスにおいて、国民は次のように区別されました。
人口の9割以上が第三身分でした。
つまり、少数の特権身分(第一身分・第二身分)が土地・官職などを握っていました。
第三身分の商工業者は、財力をつけるにつれて、現状の待遇と税の負担に不満を感じました。
1789年、シェイエス が『第三身分とは何か 』を著し、第三身分の権利を主張しました。

三部会と国民議会

フランスは、度重なる戦争で財政難に陥りました。
フランス国王ルイ16世は、テュルゴー を、また後にはネッケルを起用し、特権身分に対する課税によって財政問題を解決しようとしました
しかし、特権身分が抵抗したため、ルイ16世 は3つの身分の代表者が議論する三部会 を召集しました。
三部会
ルイ13世 の治世下に召集された17世紀初めから18世紀末まで開催なし
1789年5月、三部会がヴェルサイユ宮殿で開かれました。
三部会では、特権身分(第一身分・第二身分)と第三身分が議決方法をめぐって対立しました。
第一身分・第二身分は、1身分1票という特権身分に有利な議決方法を主張しました。
第三身分の代表者は、三部会から離脱して国民議会をつくり、憲法制定を要求しました。
ミラボー
国民議会の指導者的人物で、ラ=ファイエットと同じく、立憲君主政を目指した自由主義的な貴族
議決方法をめぐる対立
議決方法をめぐる対立
1789年6月、テニスコートの誓い
国王の国民議会閉鎖の決定に反対し、第三身分の代表者がヴェルサイユ宮殿の球技場に集まり、憲法制定まで解散しないことを誓ったこと
テニスコートの誓い
テニスコートの誓い

民衆の蜂起

三部会が開催された当時、パリ市民はパンの値上がりに苦しんでいました。
1789年7月14日、バスティーユ牢獄 への襲撃
国王と軍隊の動きに怒ったパリ市民が、多量の武器・弾薬があると信じられていたバスティーユ(牢獄の意)を襲撃し、占領した事件
バスティーユ牢獄
14世紀後半、シャルル5世が要塞として建設

国民議会の施策

封建的特権の廃止

1789年8月、国民議会 は次の封建的特権の廃止を決定しました
ただし、封建地代は有償廃止とされ 、実際には継続しました。

フランス人権宣言

1789年8月、人権宣言 採択
ラ=ファイエット が起草した宣言
アメリカ独立宣言の影響を受け、人間の自由・平等・国民主権、自然権としての 圧政への抵抗権、私有財産(所有権)の不可侵 を表明(男女両性の平等は不明記

市民層が求める改革

1790年、国民議会 は市民層が求める次の改革をおこないました。

国王の信頼失墜

1791年6月、ヴァレンヌ逃亡事件
フランス国王ルイ16世一家がオーストリアへの逃亡を計画し、失敗に終わって軟禁された事件

憲法発布と国民議会の解散

1791年、憲法が発布され、立憲君主政 、一定額以上の納税での選挙権が定められました。
目的を果たした国民議会は、解散となりました。

共和政の実現

立憲君主政か共和政か

1791年の制限選挙の結果、立法議会が成立しました。
立法議会で、次の2派が対立しました。
1792年、ジロンド派が立憲議会で優勢となり、実権を握りました。

反革命への戦争

1791年、ピルニッツ宣言
革命の波及を恐れ反対するオーストリア・プロイセンが、ルイ16世の救援を各国君主に呼びかけたこと
1792年、ジロンド 派が実権を握った立法議会 は、オーストリアへの宣戦を可決しました。
しかし、フランスの軍隊には国王を支持する王党派が多く、戦意に欠けました。
フランスは、オーストリア・プロイセンの連合軍に国内に侵入されました。
この危機に際して、フランス各地から義勇軍が集まりました。
1792年、8月10日事件
フランスの義勇軍がテュイルリー宮殿を襲い、王権を停止させた事件
ラ=マルセイエーズ
フランス の国歌で、マルセイユからきた義勇軍が歌った軍歌に由来
1792年9月、男性普通選挙による国民公会が成立しました。
国民公会 は、王政の廃止 と共和政の樹立を宣言しました。

王の処刑と内外の危機

国民公会では、急進的なジャコバン派(山岳派)が勢力を増しました。
1791年、共和政が強調され、ルイ16世が処刑されました。
君主政のイギリスは、王を打倒する革命が波及することを恐れました。
イギリス の首相ピット は、ルイ16世 の処刑をうけ、第1回対仏大同盟 を提唱・結成しました。
結果、フランスは全ヨーロッパと敵対し、国内では王党派と結びついた農民反乱を抱えました。

国民公会の政策

ジロンド派の追放と支持確保の政策

内外の危機に際して、ジャコバン派(山岳派)はジロンド派を国民公会 から追放しました。
国民公会の主導権を握ったジャコバン派は、次の政策を採用しました。

高まる不満とジャコバン派の没落

ジャコバン派の指導者ロベスピエールは、国民公会内の公安委員会 に権力を集中させ、独裁・恐怖政治をおこないました。
有力農民・市民は、次第にジャコバン派、そしてロベスピエールに不満を高めました。
1794年7月、テルミドール9日のクーデタ
ジャコバン派の指導者ロベスピエール が逮捕・処刑された事件

新政府の樹立

ジャコバン派の没落後、穏健共和派が有力となりました。
1795年憲法に基づく、ブルジョワ勢力中心の政府総裁政府 が樹立しました。