自由主義的政策と社会主義の芽生え

表記について
概要
ウィーン体制下、大陸諸国で抗争が繰り広げられました。一方、体制から距離をとったイギリスでは労働・選挙・貿易などで自由主義的政策が採られました。しかし、労働者の立場はまだ弱く、富の公平な分配を目指す社会主義思想が生まれたり、選挙法改正に反発するチャーティスト運動が起こったりしました。

イギリスの諸改革

自由主義的政策

1820年代、イギリスは次の自由主義的政策を実施しました。

選挙制度の改革

1832年、第1回選挙法改正
有権者の減った選挙区(腐敗選挙区)を廃止し、産業資本家などの都市中産階級に選挙権を許可
1918年の第4回で21歳以上の男性、30歳以上の女性に選挙権を許可
1928年の第5回で21歳以上の男女に選挙権を許可
1830年代後半、改正内容に不満を抱く労働者が、男性普通選挙などを求める人民憲章を掲げて、政治運動チャーティスト運動 を起こしました。
運動は、1839、42、48年に大規模な請願をおこないましたが、すぐに成果をあげられませんでした。
チャーチスト運動
人民憲章(People's Charter)に由来

貿易政策

産業革命後、イギリスでは自由貿易の要求によって次の政策が実施されました。

東方問題

独立運動と列強の干渉

19世紀、オスマン帝国支配下の諸民族が、帝国の衰退に乗じて独立運動を起こしました。
列強は、この運動に干渉しながら勢力拡張を目指しました。
ここから生じる国際的諸問題を、西欧列強は「東方問題」と呼びました。

ギリシア独立

1821~29年、ギリシア独立戦争
ギリシア がオスマン帝国から独立した戦争
ロシア・イギリス・フランスがギリシア を支援
ドラクロワ の「キオス島の虐殺」はオスマン帝国 軍による住民の虐殺を題材にしたもの

エジプトの強大化

1831~33、39~40年、エジプト=トルコ戦争
勢力を伸ばしたエジプトが、オスマン帝国にシリアの領有を要求した戦争
1833年、一度敗北したオスマン帝国は、ロシアにダーダネルス・ボスフォラス両海峡の通航権を認め、援助の約束を獲得
再び戦争が始まり、フランスはエジプトを援助、ロシアは地中海進出を狙ってオスマン帝国を援助
オスマン帝国劣勢の中、イギリスがエジプトの強大化を警戒して参戦
1840年、ロンドン会議
エジプト総督ムハンマド=アリーにシリアを返還させる一方で、エジプト統治の世襲権を許可
ダーダネルス・ボスフォラス両海峡の軍艦通過を禁止してロシアの進出を阻み、イギリスが外交的に勝利

社会主義思想

労働者の待遇改善

産業革命後、イギリスの労働者の生活は悲惨な状況にありました。
伝統的な手工業者が機械制工場に生活を脅かされ、1810年代に、ラダイト運動 機械うちこわし運動 )を起こしました。
1833年、工場法制定
児童労働に雇用年齢・時間などの制限を設けた一連の法律
工場法は過去数度出されたが、1833年の法は工場に対する国家の監督権をはじめて許可
以降、労働条件は次第に改善されました。

社会主義思想の芽生え

工場や土地などの生産手段を社会の共有にして資本主義の弊害を除き、平等な社会の建設を説く人々が現れました。

空想的社会主義者

ロバート=オーウェン
ニューラナークで工場を建設し、労働者の待遇改善に尽力
共産社会建設も試みたが失敗
サン=シモン フーリエ
労働者階級を保護する新しい社会秩序の樹立に挑戦
ルイ=ブラン
生産の国家統制を主張
二月革命後のフランス臨時政府に参加した社会主義者
プルードン
全ての政治的権威を否定する無政府主義を提唱

マルクスの登場

1848年、マルクスと友人エンゲルスが、『共産党宣言 』を発表しました。
マルクスらは、唯物史観 、経済史観(資本主義体制の没落の歴史的必然性)を提唱し、労働者階級の政権獲得を主張しました。
また、マルクスらは、ほかの社会主義者の考えを「空想的社会主義者 」と批判しました。