概要
ナポレオン戦争後の政治体制は、オーストリア外相メッテルニヒを中心に各国の指導者が列席するウィーン会議で協議されました。しかし、同会議で成立した保守的な体制は人々の不満を買い、各地で自由を求める運動が起きました。1830年にフランスで起こった七月革命は、そうした動きの代表例であり、隣国にも影響を及ぼしました。1848年の二月革命はさらに大きな影響をヨーロッパ中に及ぼし、「諸国民の春」と呼ばれる革命の嵐に発展しました。
二月革命
革命の背景
19世紀前半、イギリス以外の国でも改革が進みました。
古い社会的規則が消える一方で、未成熟な産業社会は、貧しい人々に十分な雇用機会を提供できませんでした。
人口増加も加わり、「大衆貧困」と呼ばれる社会問題が生じました。
1840年代後半、大衆貧困に凶作・不況が加わり、西欧各地で革命の気運が高まりました。
二月革命
七月革命
後のフランスでは、一部の富裕層に富が集中しました。
また、多額納税者のみに選挙権を与える制限選挙が採られました。
このため、民衆は選挙拡大を求める運動を起こしました。
1848年、
二月革命
国王ルイ=フィリップ
が亡命し、共和政の
臨時政府(第二共和政
)が樹立
第二共和政
臨時政府(第二共和政)には、労働者代表や社会主義者ルイ=ブラン
が参加しました。
臨時政府は、ルイ=ブラン
の提案により失業者救済のための国立作業場
を設置しました。
しかし、人々は急進的な政策を嫌い、社会主義者は1848年の男性普通選挙で大敗しました。
社会主義政権は誕生せず、既存の秩序維持を掲げる政権が誕生しました。
1848年、
六月蜂起
財政負担を理由にした国立作業場の閉鎖に不満をもつ労働者が
パリ
で蜂起
1848年、第二共和政下の大統領選挙でナポレオン1世の甥ルイ=ナポレオン
が当選しました。
第二帝政
1851年、ルイ=ナポレオンは、クーデタを起こして独裁権を握りました。
1852年、ルイ=ナポレオンは国民投票で皇帝ナポレオン3世となり、第二帝政が樹立しました。
ウィーン体制の崩壊
三月革命とドイツ統一の気運
1848年、
三月革命
二月革命の影響で、オーストリア・プロイセンなどドイツ連邦各地で起こった革命
オーストリアではウィーン体制の推進者メッテルニヒ
が失脚、プロイセンでは自由主義内閣が成立
1848~49年、
フランクフルト国民議会
三月革命を受け、ドイツ統一の構想などが話し合われたドイツ最初の全国的議会
オーストリアを除外した、プロイセン中心のドイツ統一
という小ドイツ主義
を採択
統一ドイツの皇帝にプロイセン国王を推薦
大ドイツ主義
オーストリアを含め、オーストリア中心のドイツ統一
三月革命後の各国の動き
プロイセン
プロイセン国王は国民議会の提案と皇帝位を拒絶しました。
1850年、プロイセン国王は立憲君主制に基づく欽定憲法を発布しました。
オーストリア
三月革命の影響は、オーストリア
支配下のベーメン(ボヘミア)・ハンガリー・北イタリアに波及し
、独立を目指す民族運動が起こりました。
例えば、ハンガリー
では、コシュート
(コッシュート)が独立を目指す運動を指導しました。
オーストリアは、民族運動や国内の自由主義的動きを武力で抑え、革命を許さない新絶対主義を成立させました。
ウィーン体制の崩壊
フランスでの二月革命後、ドイツ連邦での三月革命でウィーン体制を象徴する人物メッテルニヒが失脚、その後にオーストリアからの独立を目指す民族運動が起きました。
ウィーン体制の終わりを告げた、二月革命からの一連の動きを1848年革命
(諸国民の春)と総称します。