クリミア戦争とロシアの改革

概要
ロシア皇帝アレクサンドル2世は、クリミア戦争敗北後、「大改革」と呼ばれる一連の改革政策に着手しました。農奴解放をほのめかす演説を行い、「遅かれ早かれ,我々はこの方向へ進まねばならない」とモスクワの貴族たちの前で語りました。後にこの発言は実行され、アレクサンドル2世の代表的な事績として歴史上評価されています。上からの改革が進む一方で、多様な階級の出身者や若年層が知識人層(インテリゲンツィア)に加わると、それまで貴族層を中心としていた知識人層にも、皇帝主導の改革に飽き足らず、革命により体制そのものを変革しようとする傾向が目立ち始めました。このような社会情勢の下、改革への意欲を次第に失いつつあった皇帝は、急進的な革命家によって暗殺されました。
表記について

クリミア戦争

「ヨーロッパの憲兵」

1848年革命において、ハンガリーは コシュート   コッシュート )の指導でオーストリアからの独立を目指しました。
ロシアはオーストリアを支援し、ハンガリーの民族運動を制圧しました。
このことから、ロシアは反革命の擁護者として「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれました。

南下政策

古くから、ロシアは不凍港を求め、南方への進出を図る南下政策を採ってきました。
1831~33、39~40年のエジプト=トルコ戦争にも、南下政策の一環で介入しました。復習
不凍港
冬季に凍結しない港
1853~56年、クリミア戦争
オスマン帝国と南下政策を進めるロシアの戦争
ロシアはオスマン帝国内のギリシア正教徒保護を口実に 、クリミア半島の領有を要求して開戦
ロシア皇帝 ニコライ1世  の治世下で開戦し、途中病死したため、皇帝アレクサンドル2世が即位
 イギリス   フランス  オスマン帝国側で 参戦し、ロシアが敗北
1856年、 パリ条約 
黒海の中立化を取り決め、ロシアの南下を阻止した条約
ランプの貴婦人-ナイティンゲール
ナイティンゲールは、富裕な家庭の娘として生まれながら、看護・衛生などに深い関心をもち、家族から独立して人類と神に奉仕したいと考えていました。ナイティンゲールは、「看護婦は貴婦人のする仕事ではない」という家族の反対を押し切り、看護婦になりました。クリミア戦争で看護婦団の一員として戦地病院に赴き、イギリス軍の非能率的な救護体制と負傷兵への無関心さを目の当たりにしました。そこでナイティンゲールは組織だった運営の見直しを図りました。昼夜もなく働き、看護婦と兵士の妻たちを取り仕切り、シャツやシーツを洗わせ、男性陣にはトイレの清掃をさせました。戦時大臣に必要な物資を要請する手紙を書き、自費も投じました。毎晩、ランプを持ちながら、負傷兵が寝ている病室を見て回りました。その姿は「ランプの貴婦人」と呼ばれ、多くの兵士たちに慕われました。帰国後、赴任中に感染した病で床に伏せることも多くなりましたが、病院設計や看護婦教育に尽力しました。ナイティンゲール自身は、賛同も関与もしていませんが、今日知られる国際赤十字社はナイティンゲールの活動に刺激されて結成されました。
ナイティンゲール
ナイティンゲール

国内改革への注力

クリミア戦争後、ロシアは南下政策を中断し、国内改革に力を注ぎました。
この時期、イギリスもインドでの大反乱鎮圧に追われました。
2大国の監視が緩む中、ヨーロッパ列強の連携が崩れ、諸国は独自の活動を進めました。
1870年頃まで、各地で戦争や紛争が多発することになりました。

ロシアの国内改革

専制政治と農奴制

クリミア戦争後、ロシア皇帝 アレクサンドル2世 は、国内改革を急ぎました。
他国に比べ、ロシアでは次のことが依然として続き、近代化に遅れていました。
アレクサンドル2世
アレクサンドル2世
1861年、 農奴解放令 
皇帝 アレクサンドル2世  の治世下で出された、農奴の人格的自由を認める命令
農奴が耕作していた土地は農村共同体(ミール)にまとめて渡され、そこから有償で 農民個人へ分与
農村共同体
ロシアの農村のことで、自給自足を営む共同体
1863~64年のポーランド反乱鎮圧後、皇帝アレクサンドル2世は自由主義的な姿勢を後退させ、専制支配を強めました

ナロードニキの活動

ロシアの知識人階級インテリゲンツィアの一部は、上からの改革に満足しませんでした。
彼らは、西欧のような資本主義の道を通ることなく, 農村共同体   ミール )を基盤として、社会主義に 改革できると考えました。
この考えから「 ヴ=ナロード   人民のなかへ )」のスローガンを掲げて農村共同体に入り、 ナロードニキ  (人民主義者)と呼ばれました。
ナロードニキの活動は、農民から受け入れられず失敗に終わりました。
失望した一部のナロードニキは、テロリズムに走り、皇帝アレクサンドル2世を暗殺しました。