概要
日本の「開国」は、国交を認めた「和親条約」と通商を認めた「通商条約」の2段階を踏んでおこなわれました。幕府は通商を最後まで渋りました。アジアの国際環境を根本的に変化させたアヘン戦争が、貿易を開戦のきっかけとしたためです。幕府は、西洋諸国の通商要求の背後に、侵攻の可能性を意識せざるを得ませんでした。
国交の拡大と開港
アヘン戦争の衝撃
1842年、清はイギリスにアヘン戦争で敗れ、南京条約を締結しました。
この条約で、清は国交・通商の制限を緩めた、つまり「開国」しました。
アヘン戦争
清の敗北や西洋の脅威は、オランダ風説書で日本に伝えられました。
1825年以来の異国船打払令(無二念打払令)は、西洋の報復を招く恐れがありました。
1842年、老中水野忠邦は異国船打払令を撤回して薪水給与令を出し、異国船には帰国を説得し、必要であれば燃料・食糧を給与することにしました。
1844年、オランダ国王は国書にて、日本の「開国」を説きました。
幕府はこの忠告を謝絶し、「鎖国」維持の意向を伝えました。
米露の「開国」要求
19世紀、アメリカは捕鯨船や清との貿易船の寄港地を日本に求めました。
1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが、浦賀に来航して国交・通商を求めました。
幕府はこれを拒絶し、ビッドルも積極的関心をもっていなかったため退去しました。
アメリカの捕鯨
1848年、アメリカがカリフォルニアを獲得し、領土を太平洋岸に到達させました。
アメリカは、以前にも増して寄港地を日本に求めるようになりました。
1853年6月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが、浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して国交・通商を求めました。
幕府は国書を受け取り、翌年回答することを約束してペリーを退去させました。
ペリー
上:日本の巨大帆船(千石船)
下:アメリカの蒸気フリゲート艦
1853年7月、ロシア使節プチャーチンが長崎
に来航し、国交・通商と国境画定を求め、交渉中に退去しました。
幕府との交渉が長引くなか、プチャーチンは中断して退去しました。
プチャーチン
日本開国への国際的動向
異国への日本一丸での対抗
ペリー来航直後、13代将軍徳川家定のもとで老中阿部正弘は、日本一丸で異国へ対抗しようとしました。
先例を破り、朝廷に国書について報告し、藩主らに回答について意見させました。
また、海防に意欲的な前水戸藩主徳川斉昭
を幕政に登用しました。
幕政に関わらせたことは、朝廷や雄藩の藩主の幕政介入を招く転機となりました。
徳川家定
阿部正弘
徳川斉昭
和親条約締結
1854年、
日米和親条約締結
再度来航したペリーが締結した和親条約
- 必要な場合、燃料・食糧などを給与
- 難破船や乗組員を救助
- 2港下田・箱館を開港し、領事の駐在を許可
- 日本のみが義務を負う一方的な最恵国待遇を許可
最恵国待遇
日本が他国と新たに結んだ条約の内容に、アメリカには認めていない
有利な条件があれば、自動的にアメリカにも許可
ペリーの上陸
*図中の木「たまくす」は現存
1855年、
日露和親条約
締結
再度来航したプチャーチンと下田で締結した、日米和親条約と類似の和親条約
- 3港下田・箱館・長崎を開港
- 択捉島以南を日本領、得撫島以北をロシア領と画定
- 樺太は国境を定めず、両国の人々の雑居を約定
長崎
一方的な最恵国待遇に従い、日本はアメリカにも開港
北方の領土画定
イギリス・オランダとも日米和親条約と類似の和親条約が締結されました。
安政の改革開始
開港後の海防新方針
開港後、阿部正弘は安政の改革と称される改革で海防強化を図りました。
この改革の柱は、武器・軍事施設や西洋技術の導入でした。
阿部正弘
武器・軍事施設の導入
- 大船建造の禁を解除
- 軍艦の修理用機械を設備した長崎製鉄所を建設
- 大砲を据え付ける砲台台場を江戸湾に建設
- 溶鉱炉の一種反射炉を築造し、それによる大砲の製造
西洋技術の導入
- 天文方の洋書翻訳の機関蛮書和解御用
を源流とする、洋書翻訳と西洋技術教授の機関蕃書調所
を設置
- 西洋砲術を含む武術全般の訓練機関講武所を江戸に設置
- 海軍伝習所を長崎に設置し、オランダ人が造船・航海術を伝習
1860年、日米修好通商条約批准のため、海軍伝習所で学んだ勝海舟が軍艦咸臨丸で太平洋を横断
咸臨丸
*1857年、オランダから購入