概要
概要
日本は、和親条約締結で「鎖国」を部分的に放棄しましたが、さらに通商条約締結で全面的な「開国」に踏み切りました。同時期、将軍継嗣をめぐって一橋派と南紀派が対立しました。一橋派は幕政の改革派であり、南紀派は保守派の立場でした。この対立と並行して通商条約調印に関する勅許問題が起こり、極めて高度な政治問題に発展しました。
無勅許調印と継嗣問題
通商条約締結
下田駐在のアメリカ人領事ハリスは、通商条約締結を幕府に求めました。
幕府内で通商を望む声も強まり、ハリスと老中堀田正睦
の交渉は、条約調印(締結の合意書への署名)直前まで進みました。
本来不要だが、調印に対する天皇の勅許を得て、反対派を抑えようとしました。
しかし、孝明天皇は攘夷
の考えが強く、勅許は得られませんでした。
ハリス
堀田正睦
孝明天皇
1858年、清がイギリス・フランスにアロー戦争でいったん敗れました。
ハリスは、アロー戦争後に英仏が日本に通商を必ず迫ると説いた上で、友好的なアメリカと先に通商条約を締結し、前例をつくるべきと幕府に迫りました。
非常時の幕府最高職大老に突如就任した井伊直弼
は、英仏の脅威を考慮し、孝明天皇の勅許なしで
調印を断行しました。
井伊直弼
1858年、
日米修好通商条約締結
- 5港箱館
・長崎・横浜・新潟・神戸を開港、和親条約で開港した下田を閉鎖
- 開港場に外国人が居住・営業できる地域居留地を設置
- 日本滞在中の外国人がその国の領事による裁判を受けられる領事裁判権(治外法権)を許可
- 関税(輸出入に掛かる税率)を相互協議で決めることとし、日本側の関税自主権の欠如を容認
幕府はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも類似の条約を結びました。
アメリカを含む5国との通商条約は、安政の五カ国条約と総称されます。
各港と江戸湾
将軍継嗣問題
1853年のペリー来航の直後、徳川家定が13代将軍に就任しました。
徳川家定は性格に異常なところがあり、子のできる見込みがありませんでした。
徳川家定の就任以来、次期将軍擁立をめぐって次の2派が対立しました。
一橋慶喜
一橋家の養子となった前水戸藩主徳川斉昭
の子で、後の15代将軍
1858年、大老井伊直弼の職権で、徳川慶福が後の14代将軍
徳川家茂と決まりました。
徳川家定
徳川家茂
弾圧と報復
1858年の次の強行は、井伊直弼に対する不満を強めました。
- 日米修好通商条約の無勅許調印
- 非常時の幕府最高職大老の職権による将軍継嗣決定
井伊直弼は、不満分子に対する大弾圧安政の大獄をおこないました。
一橋派が隠居・謹慎を命じられた他、適塾で学んだ橋本左内や松下村塾を継いだ吉田松陰が死刑となりました。
1860年、
桜田門外の変
水戸脱藩の浪人が江戸城門外で井伊直弼を暗殺した事件
井伊直弼
橋本左内
吉田松陰
桜田門外の変(枠内:井伊直弼)
貿易とその影響
貿易開始
貿易は、1859年に箱館・横浜・長崎の3港でまず始まりました。
輸出入品の取引は、居留地で銀貨を用いておこなわれました。
輸出入額は、上の3港のうち横浜が圧倒的に多いものでした。
西洋諸国は日本の生糸を最も求め(日本の輸出品の約80%)、また、西洋諸国のうちイギリスが日本と一番多く取引しました。
1860年の3港の輸出入
横浜で生糸を見分ける外国人
日本の輸出入品
輸出
ほとんど原料品(生糸・茶・蚕卵紙、海産物など)
輸入
加工品や軍需品(毛織物・綿織物、鉄砲・艦船など)
幕府の貿易統制政策
貿易は、日本の輸出超過(輸出量>輸入量)でした。
日本の主要輸出品は、国内需要が従来高いものでした。
突然の輸出により、国内市場は品不足に陥って物価が高騰しました。
横浜港の輸出入別貿易額
1860年、幕府は物価抑制を目的に五品江戸廻送令を発令しました。
5品「雑穀・水油(菜種油)・蠟
・呉服・生糸」の産地からの横浜直送を禁じ、江戸の問屋にいったん送って国内需要を満たすことを義務づけた。
西洋諸国や輸出に関わる商人の反対で、五品江戸廻送令は効果があがりませんでした。
五品江戸廻送令
金銀比率の是正
金銀交換比率は、西洋で金1:銀15、日本で金1:銀5でした。
西洋諸国は、銀を日本に持ち込めば、金を自国よりも安く入手できました。
1860年以降、幕府は金の含有率を下げた万延小判を鋳造しました。
しかし、貨幣価値の下落は物価の上昇を意味し、庶民の生活を圧迫しました。
安政小判(左)・万延小判(右)