概要
薩摩藩と長州藩は、どちらが朝廷に影響をもつかで激しく対立しました。やがて、薩摩藩は朝廷と幕府の公武合体推進を諦めて幕府と距離を置き、長州藩は高杉晋作が藩の主導権を握ると倒幕の気運を高めました。もはや両藩を分かつのは過去の禍根と利害のみであり、坂本龍馬・中岡慎太郎らの活躍で、1866年、薩長同盟が成立しました。
不可能な攘夷
薩摩藩の方針転換
1863年7月、
薩英戦争
1862年の生麦事件の報復として、イギリスが薩摩藩に起こした戦争
戦後、薩摩藩は攘夷の不可能を理解し、イギリスと親密な関係を形成
公武合体派の朝廷掌握
1863年8月18日、
八月十八日の政変
薩摩藩・会津
藩が公武合体派の公家と結び、朝廷の実権を奪い、長州藩勢力と尊攘
派の公家を京都から追放した事件
三条実美ら公卿7人が長州藩士とともに長州へ避難(七卿落ち)
孝明天皇は攘夷の考えが強かったものの、過激な者を嫌悪
七卿落ち(*左:三条実美)
長州藩の反撃と失敗
攘夷決行の勢いは八月十八日の政変で衰えたが、挽回目的に次の動きがありました。
天狗党
藩の改革反対派が、推進派の藩士を「鼻高々の者」と蔑んだことに由来
新選組
京都守護職松平容保の指揮下で尊攘派制圧にあたった組織
池田屋(再現)
1864年7月、
禁門の変(
蛤御門の変)
①の混乱による好機と②への憤怒から、長州藩が京都に攻めのぼり、薩摩藩・会津藩などと激突して敗退した事件
禁門の変
久坂玄瑞(禁門の変で戦死した長州藩士)
攘夷不可能の見せしめ
イギリス公使オールコックは、貿易を妨げる攘夷運動を憎み、過激な藩に一撃を加え、攘夷の不可能を日本中に知らしめようとしました。
オールコックは、米・蘭・仏に長州藩攻撃を提案しました。
オールコック
1864年8月、
四国艦隊下関砲撃事件
英・米・蘭・仏の連合艦隊が下関の砲台を攻撃した事件
長州藩の尊攘派も、艦隊に惨敗して攘夷の不可能を理解
砲台の占領
砲台の占領
薩長同盟と倒幕
第一次長州征討
1864年7~12月、
長州征討(第一次)
幕府が、禁門の変を理由に朝廷から勅命を受け、長州藩を攻めた戦い
長州藩が降伏したため交戦なし
1864年末、高杉晋作が非正規軍隊奇兵隊を率いて長州藩の主導権を奪い、藩の方針を恭順から倒幕へと転じさせました。
四国艦隊下関砲撃事件以降、高杉晋作は攘夷を止め、むしろ倒幕のために外国へ接近しました。
大村益次郎を起用して軍制改革に当たらせ、また、イギリスからの武器購入を計画しました。
購入計画は、幕府が長州藩への輸出禁止を通達していたために難航しました。
奇兵隊
藩の正規兵「正兵」の対語で、身分にこだわらず、有志を実力主義で募った軍隊
高杉晋作
奇兵隊
桂小五郎(木戸孝允)
大村益次郎
フランスと幕府の接近
1864年着任のフランス公使ロッシュは、幕府支持の親幕政策を展開しました。
1865年、幕府はフランスの指導のもとに横須賀製鉄所を設立しました。
ロッシュ
イギリスと薩摩藩の接近
1865年着任の、オールコックの後任公使パークスは、親幕政策をとるロッシュに対抗し、幕府を見限って薩摩藩に接近しました。
薩摩藩では、西郷隆盛・大久保利通らが藩の主導権を握り、藩の方針も公武合体が放棄されて徐々に倒幕へ傾きつつありました。
パークス
西郷隆盛
条約勅許と関税引き下げ
幕府は攘夷運動を懸念し、勅許がないことを理由に通商条約の完全履行を渋っていました。
1865年、四国(英・米・蘭・仏)の連合艦隊が、圧力をかけて通商条約の勅許を獲得し、さらに1866年、幕府に改税約書に調印させて関税率を引き下げました(一律5%へ)。
薩摩藩と長州藩の接近
1866年、
薩長同盟(
薩長連合)の密約成立
土佐藩坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介で薩摩藩・長州藩が結んだ軍事同盟
仮に幕府と戦い勝利した後、両藩提携による雄藩連合政権の実現を約束
長州藩は、薩摩藩を介したイギリスからの武器購入を実現
坂本龍馬
中岡慎太郎
薩長同盟まで