概要
1867年10月14日、15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に還し、江戸幕府を消滅させました。討幕を避ける目的のほか、慶喜は、政治能力に乏しい朝廷が慶喜に政権を再度委ねると踏み、さすれば樹立される新政府で徳川氏が権力をもてると考えました。しかし、慶喜は政権を再度委ねられず、また、新政府に席を用意されていませんでした。
江戸幕府の滅亡
第二次長州征討
1866年6~8月、
長州征討(第二次)
長州藩が倒幕の動きを見せたため、幕府が長州藩を再度攻めた戦い
幕府は各地で敗れ、14代将軍徳川家茂の急死で戦闘中止
徳川家茂
1866年12月、15代将軍に徳川慶喜が就任しました。
徳川慶喜
1866年12月末、孝明天皇が急死しました(毒殺か)。
孝明天皇は攘夷の考えをもちながらも、過激な者を嫌い、公武合体を進めてきました。
その死は、武力倒幕(討幕)など過激な行動を許す転機となりました。
南北戦争の中古品―エンフィールド銃
1865年、南北戦争が終わり、前装式施錠銃が大量に余った。イギリス人グラバーは、これらの銃を薩摩藩経由で長州藩に流した。西洋で後装式が主流になる中、時代遅れの銃であったが、火縄銃にはない施錠(ライフリング)をもっていた。発射と同時に弾が回転し、高い威力・命中率を発揮した。
一刻を争う行動
薩摩藩・長州藩
薩摩藩・長州藩は、雄藩連合政権を目指して討幕を決意しました。
1867年10月14日、
討幕の密勅
両藩と朝廷内の岩倉具視が結んで受けた討幕の命令
討幕の密勅
天皇による直筆がないなど、偽の勅命という説あり
討幕の密勅
岩倉具視
土佐藩
土佐藩は、遠い先祖が徳川氏から恩を受けたため、討幕には反対でした。
1867年、坂本龍馬は、将軍が政権を朝廷に還し(幕府の消滅)、天皇のもとに徳川氏・雄藩の連合政権を樹立する構想「船中八策」を起草しました。
前土佐藩主山内豊信
は、後藤象二郎を通してこの構想を知り、15代将軍徳川慶喜に勧めました。
大政奉還すべきか
*13日、二条城で重臣に諮問
1867年10月14日、
大政奉還の上表
徳川慶喜が朝廷へ政権を還したこと
幕府消滅による討幕の空振り、徳川氏主導の雄藩の連合政権樹立を意図
新政府樹立と徳川氏の否定
「大政奉還」により、「討幕の密勅」は空振りに終わりました。
焦った薩長両藩は武力を背景に、今後についての朝廷の公式な回答を操作しました。
1867年12月9日、
王政復古の大号令
朝廷による「天皇を中心とする新政府の樹立」「幕府の公式な消滅」の宣言
征夷大将軍(幕府)・摂政・関白の廃止
三職(総裁・議定・参与)の創設
参与
薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通、長州藩の木戸孝允
・伊藤博文、土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟、肥前藩の大隈重信など
王政復古の大号令
1867年12月9日夜、
小御所会議
徳川慶喜抜きで開かれた、三職による会議
慶喜に辞官納地(内大臣の辞退と領地の一部返上)を命令
小御所会議
辞官納地の他にも挑発を受け、慶喜は旧幕府勢力を率いて新政府に挑みました。
幕末混乱期の民衆
民間独自の神道
幕末、民間独自の神道が創始され、世の混乱に不安を抱く民衆を救いました。
- 天理教
中山みきが大和に創始した神道
- 黒住教
黒住宗忠が備前に創始した神道
- 金光教
川手文治郎が備中に創始した神道
上記の神道は、後に明治政府から公認されて教派神道と総称
中山みき
黒住宗忠
変革への期待
幕末、民衆は尊皇攘夷論に影響され、また、開国による物価上昇に不安を抱きました。
こうした民衆が幕末期に起こした一揆は、世直し一揆と呼ばれ、不平等のない世の到来を要求する側面がありました。
1867年8月から翌年にかけ、徳川氏の天下が崩れて世が変わっていく状態を、民衆が「ええじゃないか」と歌いあげ、はやし立てる集団乱舞が発生しました。
ええじゃないか
「国民」「日本国家」の発見―幕末のナショナリズム
江戸時代、人々の帰属意識は、藩あるいは令制国(三河国など)にありました。しかし幕末には、例えば東北の農民が、外圧に反応し、田植えの間に筆をとって世界地図を描き、真中に「大日本」と小さく書き止め、日本の行く末を案じました。他にも似た事例は多くあります。外圧は、人々が「国民」ないし「日本国家」を発見する契機となりました。ただし、まだ端緒的な形態で、前期的ナショナリズムと言われます。