明治維新―戊辰戦争

表記について
概要
山内豊信らの反対を圧力で抑え、小御所会議は徳川慶喜の辞官納地を決めました。さらに薩摩藩は旧幕府勢力への挑発行為を重ね、旧幕府勢力の武力行使を煽動しました。狙い通り、慶喜は薩摩藩追討に挙兵しました。戦いが進行すると、慶喜は天皇による新政府に背いた「賊」として扱われ、正義の名の下に追われる身となりました。

戊辰戦争

新政府の目下の課題

1867年12月9日、王政復古の大号令で新政府が樹立しました。
新政府は、次の2つの実現を目指しました。
開国から新政府樹立を経て①②達成に至る激動を明治維新と呼びます。

戊辰戦争|1868年1月~69年5月


戊辰戦争
元15代将軍徳川慶喜は、新政府から挑発行為を受けました。
旧幕府勢力の怒りも限界に達し、徳川慶喜は新政府との戦争を決意しました。
1868年1月、鳥羽・伏見の戦い
旧幕府の兵が、京都近郊で薩摩藩・長州藩の兵と交戦し、敗退した戦い
敗れた徳川慶喜は江戸へ敗走
この機に徳川慶喜が朝敵と決まり、追討のための東征軍(官軍)が結成

鳥羽伏見の戦い
1868年4月、東征軍参謀西郷隆盛と幕臣勝海舟の交渉で、江戸城が無血で(戦闘を交えず)新政府に明け渡されました。
明け渡し後、上野寛永寺で彰義しょうぎ隊が東征軍に反抗し、1日で敗退

明け渡しの交渉
(左:西郷隆盛/右:勝海舟)
新政府は、降伏した旧幕府勢力への追討を止めませんでした。
東北の諸藩は、新政府の不義を責め、奥羽越列藩おううえつれっぱん 同盟を結成しました。
1868年9月、奥羽越列藩同盟の中心の会津あいづ藩が東征軍に敗れ、同盟は崩壊しました。

会津での戦い

損傷した会津若松城(降伏後に撮影)
1869年5月、旧幕府海軍榎本武揚たけあき が、箱館の五稜郭ごりょうかくで降伏しました。
約1年半にわたる戊辰戦争が終わり、新政府が国内をほぼ統一しました。

箱館での戦い

五稜郭

五稜郭(出典:国土画像情報(カラー空中写真)
「偽官軍」の汚名―赤報隊
鳥羽・伏見の戦いで、薩摩藩の本営に天皇側の軍「官軍」を示す「錦の御旗」が掲げられ、慶喜側は賊軍として追われた。相楽総三を隊長とする赤報隊が、東征軍の先鋒にあたり、新政府の許可を得て、幕領での年貢半減を布告しつつ東進した。新政府は、人心の掌握を狙った。しかし、後に新政府は年貢半減を密かに取り消し、相楽らを「偽官軍」として処刑した。