概要
戊辰戦争と並行して、新政府は政治の刷新を図りました。まず、五箇条の誓文で基本方針を国内外に示した後、中央集権化を進めました。そのためには、独自の統治をおこなう藩への干渉を強め、いずれは藩を解体しなければなりません。かくして廃藩置県が断行されましたが、その頃の新政府の実態は、既に基本方針と乖離していました。
政治の刷新
国家の骨格作り
基本方針
1868年3月、
五箇条の誓文
全5条からなる新政府の基本方針で、天皇が神々に誓う形で発布
由利公正が起草、福岡孝弟
が修正、さらに木戸孝允が加筆修正
第1条の「列候会議ヲ興シ」が「広ク会議ヲ興シ」に修正され、政治に国民の意見(公議世論)を反映することを誓約
第3条で、旧来の陋習(攘夷)の停止と、公道(国際法)の遵守を誓約
第5条で、「智識ヲ世界ニ求メ」とあり、開国和親の方針を誓約
五箇条の誓文の宣布
国民の心得
1868年3月、
五榜の掲示
国民の5つの心得を示す高札
キリスト教を「邪宗門」として信仰禁止
徒党や強訴を禁止するなど江戸幕府の政策を踏襲
五箇条の誓文で誓った公議世論の反映は不徹底
五榜の掲示
新政府の政治組織
1868年
閏4月、
政体書制定
三職を廃止し、アメリカの制度を参考に新政府の政治組織を定めた法
最高機関太政官
に国家権力を集め、構成する官吏で三権分立
政体書
首都の移動
1868年7月、江戸を東京と改称しました。
1869年、首都を京都から東京に変更しました。
皇居に入る天皇の行列
*枠内:神輿に乗る天皇
元号
1868年9月、元号を明治と改元しました。
一世一元の制を採り、天皇在位中は1つの元号を使い続けると決めました。
古来、吉凶の出来事に応じて元号は改められ、歴代最多は在位中8回の改元
明治天皇
公式宣言のない遷都―京都から東京へ
天皇を東京に移すことは、関東・東北を掌握するため、そして保守的な女官勢力を切り離すために必要でした。1868年9月、天皇行幸
の大行列が御所を出て東京に向かい、民衆に天皇を認知させて1度京都に帰りました。翌年3月、天皇は再び東京に向かうと、もはや京都に戻りませんでした。公家・女官などの反対の声もあり、遷都の公式宣言はありませんでした。
政治的国内統一
戊辰戦争中、新政府は没収した幕領のうち要地を府、他を県としました。
諸藩では藩主が独自の統治を続けており、新政府は干渉したいができませんでした。
版籍奉還前(府県の設置)
1869年、
版籍奉還
版図(藩の領地)と戸籍(領民)を天皇へ還すことを、まず薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主が出願し、多くの藩に倣わせた政策
形だけではあるが、新政府が諸藩へ干渉できる根拠が成立
藩主は、旧領地を治める行政官知藩事に任命され、改めて藩政を担当
知藩事の収入は、新政府から給与される家禄(藩の年貢収入の10%相当)
版籍奉還後
藩主は、知藩事となっても藩の徴税権・軍事権を保持し、実質的変化が乏しいものでした。
新政府は、藩の廃止による全ての権限の掌握を決意しました。
1871年、薩摩・長州・土佐の3藩は、反発に備えて御親兵を組織しました。
1871年7月、
廃藩置県
藩を廃止して府・県とし、新政府が全国を政治的に統一した政策
府は、新政府が派遣する府知事が行政担当
県は、新政府が派遣する県令が行政担当
知藩事には、罷免と旧領地への影響を断つために東京居住を命令
当初、3府(東京・大阪・京都)・302県で、1888年に1道3府43県
廃藩置県後
骨格の軌道修正
政治組織の再整備
政体書で定められた政治組織は、版籍奉還・廃藩置県の際に再整備されました。
基本方針と徐々に離れ、薩摩・長州・土佐・肥前の実力者が組織の重役を占め、のちに藩閥政府と呼ばれる状態を固めました。
三院の構成員の出身
*出身藩と人数を表記
版籍奉還後
天皇親政・祭政一致の方針から、太政官の上に神祇官
を置きました。
また、太政官の下に6つの省を置いた。
神祇官の設置
廃藩置県後
太政官を三院(正院・左院・右院)で構成し、正院の下に各省を置くことにしました。
神祇官は格下げとなり、正院の下の神祇省となりました。
三院