国民皆兵と士族の没落

表記について
概要
長州藩で活躍した軍略家、大村益次郎は、外国に対抗できる常備軍を国民徴兵で編成しようと考えました。この考えは、新政府が身分を再編し、ようやく実現しました。士族(旧藩士)の存在意義が、軍事面から消え、秩禄の受給で財政を圧迫するだけとなりました。1876年、新政府は秩禄の廃止を断行し、士族が次々と没落していきました。

軍事制度と警察制度

職業軍人の配備

天皇護衛の兵隊

1871年、新政府は直轄兵御親兵薩摩・長州・土佐の3藩から募り、廃藩置県に伴う反発に備えました。
1872年、御親兵を改称して、天皇を護衛する兵隊近衛兵このえへいとしました。

内乱鎮圧の常備陸軍

廃藩置県後、旧藩士の一部は各地に設けた常備陸軍鎮台ちんだいに配置されました。
兵部ひょうぶ省のもと、鎮台は各地の反乱や一揆に備えました。
鎮台
まず東京・大阪・熊本・仙台に、次いで名古屋・広島に設置

名古屋城前の鎮台
1872年、兵部省は陸軍省・海軍省に分離しました。

国民皆兵のための四民平等

長州藩の大村益次郎ますじろう は、国民皆兵による近代的軍隊の創設を発案しました。
しかし、江戸時代以降は、「武士―軍事・政治」「百姓―生産」というように、身分ごとに負担すべき役割が固定されていました。
例えば、「百姓」が軍事に手を出すことは許されませんでした。
大村益次郎
後に暗殺され、案は長州藩の奇兵隊指揮官山県有朋 やまがたありともが実現

大村益次郎

役割の固定
1869~71年、新政府は人々を次の3つの身分(族籍)に再編しました。
平民には、華族・士族との結婚、苗字の公的使用、職業・移転の自由を認めました。
再編により、あらゆる人々(四民)が役割を平等に負担できる、所謂いわゆる四民平等の世が実現しました。

役割の平等負担
1871年、解放令賤称せんしょう廃止令)
江戸時代の下位の身分「えた(かわた)」「非人」を廃止し、制度上の身分を平民とした法令
新政府は、実質的な差別是正をせず、人々の差別意識は継続

明治最初の全国的戸籍

1872年、新たな身分に基づく統一的な戸籍壬申戸籍を編成しました。

1873年の人口構成

国民皆兵の実現

1872年、徴兵告諭
四民平等に基づく国民皆兵を人々に告知したこと
「兵役で国に命(血)を捧げること」は、仏語で「impôt du sang」と表現され、新政府がこれを「血税けつぜい」と直訳したため、生血 いきち を採られるという誤解が発生
1873年、徴兵令
徴兵告諭を具体化し、国民の兵役を定めた法令
身分の区別なく、満20歳に達した男性から選抜し、3年間の兵役を義務化
兵役免除の規定があり、戸主と跡継ぎ、官吏や学生、代人料上納(270円)など

徴兵逃れの指南書

兵役免除率
1873~74年、徴兵令に反対する農民の一揆血税一揆が各地で起こりました。

警察制度の整備

1871年、東京府内の警察にあたる者邏卒らそつを配置しました。
1873年、内務省を新設し、地方行政・警察行政を統轄させた
1874年、東京府に警視庁を設置し、邏卒を巡査と改称しました。

警察機構

士族の没落

財政負担と秩禄処分

版籍奉還・廃藩置県を経て、華族(旧藩主)・士族(旧藩士)の収入源は、新政府から支給される次の2つになりました。
①②を合わせて秩禄ちつろく と呼び、新政府の毎年の歳出の約30%を占めました。

廃藩置県前

廃藩置県後
1873年、秩禄奉還の法
秩禄の支給停止希望者に、秩禄数カ年分を現金などで一度に支給する政策
1876年、秩禄処分
秩禄の受給者に、5~14カ年分相当の金禄公債証書を与え、秩禄を全廃した政策
金禄公債証書
記載額の数%(利子)を年2回、6年目から毎年抽選で記載額も受給可能

金禄公債証書
*下の引換券で利子を支給

士族の没落と救済

多くの士族が、わずかな受給額を元手に商売に手を出しました。
慣れない商売で失敗する士族が多く、その失敗を「士族の商法」と呼びました。

「士族の商法」の風刺画
新政府は、困窮する士族の救済に、就業奨励策士族授産を講じました。
士族授産の一例は、北海道開拓と北辺防備にあたる農兵屯田兵とんでんへい です。
しかし、ほとんど失敗に終わり、新政府に反発する不平士族が増加しました。