概要
蘇我氏は大臣として政権を握り、時に王権侵害の行動をとりました。蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼすと、急速に反蘇我氏の動きが進みました。中臣鎌足・中大兄皇子らを中心とした乙巳の変により、蘇我氏の政権は滅びました。この政変後、新政権は唐の進んだ政治文化を導入して改革を目指していきました。所謂「大化改新」です。
蘇我氏の政権
蘇我氏の政権の最盛と終結
620年代、厩戸王・蘇我馬子が死去しました。
大臣蘇我蝦夷と蝦夷の子蘇我入鹿の横暴が目立ちはじめ、大王
皇極天皇の代になると、大王の権限までも無視しました。
蘇我馬子の墓(石舞台古墳)
蘇我入鹿
大王の権限侵害
- 蝦夷が子の入鹿に、大臣の位を表す紫冠を勝手に授与
- 蝦夷の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門、子女を王子と呼称
反蘇我氏の結集と暗殺
蘇我入鹿が次期大王の候補山背大兄王を滅ぼしました。
これをきっかけに、蘇我氏の横暴に対する不満が一挙に広がり、中臣鎌足
は蘇我氏打倒の計画を進めました。
中臣鎌足は当時の大王皇極天皇の子中大兄皇子に近づき、また、蘇我倉山田石川麻呂の協力も得ました。
中臣鎌足と中大兄皇子の出会い
645年、
乙巳の変
蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた事件
乙巳の変
入鹿の首塚
大化改新
新政権の組織―大臣の廃止
新政権では大臣・大連を廃止し、唐に倣って組織を再編成しました。
大連は物部守屋の死後に廃絶
新政権の組織
宮都の移動
645年、難波宮に宮都を移動させました。
宮
内裏(大王の居住空間)・役人の政務の場などで構成
難波宮跡
「改新の詔」
646年、「改新の詔」で、唐に倣った4つの改革方針を示しました。
「改新の詔」
現存せず、720年成立の『日本書紀』が収録するが、後世の潤色多数
例えば、当時の行政区画「評」を「郡」と間違えるなど
公地公民制と徴税
豪族は私有民部曲に私有地(支配拠点の田地)田荘を耕作させ、田荘の収穫を財力にしていました。
公地公民制以前
大王は、民衆・土地があくまで大王(ヤマト政権)のものという理念を追求しようとしました。
豪族の部曲・田荘を廃止し、公地・公民からの徴税を可能にしました。
豪族の収入として、上級官人の者には食封
を与えることにしました。
公地公民制以後
行政区画と地方官
「国」という行政区画で各地を分け、国の下に「評
」を置きました。
評
『日本書紀』収録の「改新の詔」では「郡」と記載
藤原京出土の木簡から、当時の区画は評と判明
木簡(右下に「評」の字)
各「国」の地方官国司には、中央の役人を任命・派遣しました。
評の地方官評造には、従来から在地(現地)で支配力をもっていた国造層を任命しました。
クニと国の概観
東北経営の前線基地
蝦夷平定のため、647年に渟足柵
を、648年に磐舟柵を設置しました。
前線基地
古墳時代の終末
古墳時代終末期|6世紀末~7世紀
ヤマト政権がクニの連合状態から脱却し、古墳の造営を規制したのでしょうか!?
6世紀末に大型の前方後円墳の造営が停止され、大王・豪族は大型の方墳・円墳を営むようになりました。
7世紀中頃から大王のみ八角墳を営み、差別化が図られました。
終末期の古墳を終末期古墳と総称
646年、薄葬令を出して、古墳造営の人員・必要日数を規制
大王以外の古墳の造営停止を促進
円墳
方墳
八角墳