文明開化

表記について
概要
富国強兵は、殖産興業のほかに、西洋文明の導入でも目指されました。この動きは、江戸時代の文化を全面的に否定する急進的なものでした。しかし、明治維新から間もない時期で、前時代の古さと新時代の新しさが共存している状況でした。むしろ、この奇妙な混合が、旧来の日本人に風味のある異国趣味として受容されました。

文明開化

文明開化とは

富国強兵のための具体的政策の1つは、思想・学問・教育・生活様式など、様々な西洋文明を急速に摂取する文明開化でした。
文明開化の必要性―万国公法
欧米列強は、万国公法(国際法)で相互の平等・対等を認めていました。しかし、「非文明国」には適用せず、不平等な条約を結んでよいとしました。当時の日本は、男女混浴・街中での裸体・入れ墨が目立ち、外国人から「野蛮」だと嫌がられました。幕末に締結した不平等な条約の改正には、文明化が必須となりました。新政府は、改正交渉と並行して、軽犯罪法「違式 いしき 註違かいい条例」を定め、野蛮な文化の排除に努めました。

思想

儒学・神道の考え方や慣習が排斥され、自由主義・個人主義などの西洋思想が流入しました。
人は生まれながらに自由・平等で、幸福追求の権利をもつという天賦てんぷ 人権思想は、後の自由民権運動にも大きな影響を与えました。

思想家

福沢諭吉
緒方洪庵の適塾で学び、3度の欧米巡歴で西洋の文明にふれた人物
欧米紹介書『西洋事情』、学問の啓蒙書『学問のすゝめ』、日本と西洋の文明を論ずる『文明論之概略ぶんめいろんのがいりゃく

福沢諭吉
中村正直まさなお
個人主義を説くスマイルズの『自助論』の翻訳書『西国立志編』、功利主義を説くミルの『自由論』の翻訳書自由之ことわり

中村正直
中江兆民
ルソーの『社会契約論』の一部漢訳『民約訳解』を著した人物

教育

1871年、文部省が新設され、教育・学芸関連を司りました。
1872年、フランスに倣った学校制度の法令学制を公布し、序文「被仰出書おおせいだされしょ」で「学問は身を立てる財本」と立身出世主義を強調しました。
全国を大・中・小の3段階の学区に分け、小学区に初等教育機関小学校を置きました。
国民皆学を目指す理想が現実と乖離かいりし、就学率は、授業料の徴収などを理由に低いものでした。

小学校の就学

授業風景

長野県の旧開智小学校

高等教育機関

東京大学
1877年、東京開成学校・東京医学校を統合し、創設された官立大学
師範学校
教員養成を目的として創設された学校(女子師範学校も存在)

私学

慶応義塾
1868年、福沢諭吉が江戸の蘭学塾を移動・改称した私塾
同志社
1875年、新島襄にいじまじょうキリスト教による教育を目指した私塾

宗教

神道の純化と国教化

新政府は、宗教権威者(天皇)が政治権力者を兼ねる「祭政一致」の立場をとりました。
1868年、神仏分離令制定
神道の国教化を目的として、神道の純化のために神仏習合を禁じた法令
堕落した僧侶への怒りから、仏教を排斥する行動廃仏毀釈はいぶつきしゃく が全国で発生

神仏習合

廃仏毀釈

廃仏毀釈で頭部を破壊された石仏
1870年、大教宣布たいきょうせんぷみことのり 発布
神道の国教化の方針を示し、これに沿った神社制度・祝祭日などを制定させた詔
祝祭日には、紀元節(神武天皇即位の2月11日)、天長節(明治天皇誕生の11月3日)などを制定
戦後、明治時代以降の国家中心で形成・振興した神道を国家神道と呼称

キリスト教の黙認

新政府は、江戸幕府同様の禁教政策をとり、隠れキリシタンを迫害しました。
1868~73年、浦上信徒うらかみしんと弾圧事件
長崎浦上のキリシタンが公然と信教を表明し、新政府に捕らえられた事件
新政府欧は米列強に抗議され、1873年、禁教の高札を撤廃してキリスト教を黙認

浦上天主堂

新聞と雑誌

1869年、本木昌造もとぎしょうぞうが鉛製活字の量産に成功し、日本での活版印刷が再開しました。
印刷技術に助けられ、東京を中心に日刊新聞や雑誌が創刊されました。
活版印刷は、江戸時代の直前に日本に伝来したが、幕府の禁教で消滅

本木昌造
1873年、洋学者らが啓蒙的思想団体明六社めいろくしゃ を組織し、機関誌『明六雑誌』を出版して西洋思想の普及に努めました。
明六社
参加者は、森有礼・西周・福沢諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹など

明六雑誌

暦法

太陽暦を採用し、1日を24時間、1週間を7日と定めました(民衆は旧暦の使用を継続)。

世相


銀座