明治初期の対外関係

表記について
概要
新政府の最大の懸案は、幕府が結んだ諸条約の改正でした。1871年、岩倉使節団が改正交渉と欧米視察に派遣されました。使節団派遣中の新政府「留守政府」は、国内の改革に着手する一方、急激な改革による国内の不満を外に向けようと、征韓論を唱えました。使節団の帰国後、征韓論をめぐって新政府内に大きな亀裂が生じました。

条約改正―不平等性の是正

諸条約の不平等性

幕府が開国に際して結んだ諸条約には、次の不平等性が含まれていました。
新政府は、幕府から諸条約を引き継ぎ、改正による不平等性の解消を目指しました。

欧米視察と条約改正①

1871年、右大臣岩倉具視ともみを大使とする使節団岩倉使節団が、1872年から交渉可能とされた改正の予備交渉と、欧米の視察に派遣されました。
岩倉使節団
副使に 大久保利通・木戸孝允・伊藤博文 ら、留学生に津田梅子
随行した久米くめ邦武くにたけが、見聞録『 米欧回覧実記べいおうかいらんじっき 』を編集
まずアメリカに7ヶ月滞在し、現段階での交渉を断念して西洋の視察に変更しました。

岩倉使節団
(左から木戸孝允・山口尚芳・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通)

久米邦武

『米欧回覧実記』
(文章と挿絵で米欧の様子を報告)

条約改正②

1876年、外務卿がいむきょう寺島宗則むねのり が、関税自主権の回復に関して、アメリカとの交渉に成功しました
しかし、イギリス・ドイツなどの反対で無効となりました。

寺島宗則

近隣外交と国境画定

清との外交

1871年、日清修好条規締結
条約の不平等性に苦しむ日本・清の両国が結んだ、初めての対等条約
①相互の開港
②領事裁判権の相互承認
日清修好条規
内容に関して新政府内に不満が生じ、1873年にようやく批准ひじゅん

琉球の帰属問題

江戸時代以来、琉球王国は、事実上薩摩さつま藩に支配されました。
しかし、琉球王国は名目上清を宗主国(一部権限を握り、上に立つ国)としていました。
新政府は琉球王国を日本領とする方針をとり、1872年、琉球藩を置きました。
琉球王国の王尚泰しょうたい を藩王としましたが、清はこの措置を認めませんでした。
琉球藩
1871年の廃藩置県後であるが、清や現地の反発を恐れ、王の統治を維持

尚泰

19世紀の東アジア

台湾出兵と琉球処分

琉球藩の設置後も、琉球王国が清と日本のどちらに属すか未解決でした。
1874年、台湾出兵
1871年、琉球漂流民殺害事件が台湾で起き、事件を無視した清に対して、新政府は「琉球民は日本国民」と主張し、台湾に軍を出兵した出来事
清は、イギリスの調停もあって、日本の出兵を正当な行動と容認
この一件で、新政府は「琉球王国が日本に属すと示す事実」ができたと確信しました。
1879年、琉球処分
新政府が、琉球王国と琉球藩を廃して、沖縄県を設置したこと

19世紀の東アジア

朝鮮との外交

新政府は、朝鮮に日本の新政府発足を通告し、新たな国交を求めました。
朝鮮は、宗氏を窓口にしてのみ交流を許す、江戸時代同様の恩恵的な国交を望みました。
そのため、新政府の望む国交は朝鮮から拒否されました。
岩倉使節団派遣中の新政府、いわゆる留守政府のあいだでは、西郷隆盛さいごうたかもり板垣退助 いたがきたいすけらが、朝鮮との国交を武力で開く征韓論せいかんろん を唱えました。
征韓論は、1873年に帰国した岩倉使節団の反対で否決されました。
征韓論
別の目的は、新政府に対する士族らの不満を国外にそらすこと
征韓論の否決を受け、西郷・板垣・江藤新平・副島種臣そえじまたねおみら辞職(明治六年の政変)

西郷隆盛

板垣退助

大久保利通

政府内の激突
1875年、江華島こうかとう事件
日本の軍艦雲揚うんようが、朝鮮半島沿岸の測量中に、江華島で砲撃された事件

江華島

雲揚
1876年、日朝修好条規締結
江華島事件の折衝で、日本と朝鮮が結んだ、日本に有利な不平等条約

19世紀の東アジア

ロシアとの外交

1875年、樺太からふと千島ちしま 交換条約 締結
日本とロシアが結んだ国境画定条約
日本側の交渉人は、駐露公使榎本武揚えのもとたけあき
ロシアが樺太全島を領有、日本が千島列島全島を領有

樺太・千島交換条約

小笠原諸島の帰属問題

1876年、所属が不明確であった小笠原おがさわら 諸島を日本領と通告しました。
イギリス・アメリカからの異議がなかったため、内務省の管轄下に置きました。

日本の領土(丸枠含む)