概要
自由民権運動は、まず国会開設の請願を目指しました。1880年、請願のための全国的組織「国会期成同盟」が結成されました。また、請願と並行して、将来に備えた憲法草案の作成も進められました。新政府は、「開拓使官有物払い下げ事件」の発覚で激しい批判を浴び、批判回避のために、10年以内の国会開設にようやく踏み切りました。
国会開設の請願
地方統治制度の整備
1878年、新政府は地方三新法と総称される3つの法を定めました。
- 郡区町村編制法
旧来の郡(大都市は区)・町・村を行政上の単位として復活させた法律
-
府県会規則
地方議会府県会の議員の選挙(公選)・権限などについての統一規則
- 地方税規則
府県税や民費などの複雑な諸税を「地方税」に統一した規則
府県会
民衆の要求を受け、府知事・県令が設置した公選による地方議会
府県会設置と民衆の懐柔
国会開設の請願と強まる弾圧
1877年、片岡健吉
を総代とする政治結社(政社)立志社が、国会開設を求める意見書立志社建白を天皇に提出しようとしました。
新政府に却下されましたが、自由民権運動を国会開設請願へと突き動かしました。
1878年、立志社を中心に愛国社の再興大会が大阪で開かれ、この頃から、士族以外に地主や都市の商工業者も自由民権運動に加わり始めました。
愛国社
1875年の大阪会議後、板垣退助が新政府に復帰して事実上解散状態
1880年、愛国社が、国会開設請願の全国的団体国会期成同盟と改称し、8万7000人が署名した国会開設請願書を天皇宛で提出しました。
新政府は請願書を受理せず、さらには、勢いづいた運動の弾圧を始めました。
国会期成同盟の目的
1880年、
新聞紙条例改正・
集会条例制定
国会開設運動への対処に、新聞の規制を強化し、集会・結社の自由を制限
集会条例の風刺画
*会(貝)を壊す条例(上鈴)
政府に先んじた憲法の準備
国会期成同盟は、1881年10月に各自の憲法草案を持ち寄ることを約束しました。
次のような民間の憲法草案が作成され、私擬憲法
と総称されました。
- 「私擬憲法案」
福沢諭吉が設立した政治結社交詢社
の憲法草案
- 「東洋大日本国国憲按」
『民権自由論』の著者植木枝盛の憲法草案
最も民主的な憲法草案と言われ、抵抗権・革命権を認可
- 「日本憲法見込案」
高知の政治結社(政社)立志社の憲法草案
- 「五日市憲法草案」
東京の五日市の地域住民が共同討議でまとめた憲法草案
植木枝盛
10年以内の国会開設
維新の三傑から次世代へ
1878年、
紀尾井坂の変
大久保利通が不平士族に暗殺された事件
前年には、木戸孝允の病死と西郷隆盛の自害があり、彼ら2人と大久保利通の「維新の三傑
」は政治活躍に幕を閉じました。
維新の三傑
*左から木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通
再度の内紛と国会開設の勅諭
大久保利通を欠いた新政府は、自由民権運動を前にして、次の内紛を生じさせました。
大隈重信
伊藤博文
岩倉具視
1881年、
開拓使官有物払下げ事件
旧薩摩藩出身の開拓使長官黒田清隆が、開拓使の高額な官有物を、同藩出身の政商五代友厚の会社に不当に安く売り渡そうとした事件
発覚後、世論は新政府に対する批判を強め、国会の早期開設要求が激化
黒田清隆
五代友厚
1881年、
明治十四年の政変
新政府が、情報漏洩による開拓使官有物払下げ事件発覚を大隈重信の仕業と決めつけ、国会に関する対立もあったことから大隈重信を追放した事件
併せて、国会開設の勅諭を出して、1890年の国会開設を表明
国会開設の勅諭
開設時期の明示で、政府批判の抑制と新政府主導の国会開設を意図
国会開設の勅諭
国会開設請願から政権獲得へ―政党の登場
国会期成同盟は、国会開設の勅諭を受け、目的が果たされたとして解散しました。
国会開設後の政権獲得を目指す団体「政党」が、次々と結成されまし
た。
政党名 |
自由党 |
立憲改進党 |
立憲帝政党 |
代表者 |
板垣退助
|
大隈重信
|
福地源一郎
|
傾向 |
フランス流・急進的自由主義 |
イギリス流・君臣同治・制限選挙 |
保守的・政府系政党 |
主張 |
一院制・主権在民・普通選挙 |
二院制・君民同治・制限選挙 |
二院制・主権在君・制限選挙 |
基盤 |
士族や地主・自作農(農村) |
知識人・実業家(都市) |
神官・僧侶・官吏 |
機関誌 |
「自由新聞」 |
「郵便報知新聞」 |
「東京日日新聞」 |
天賦人権論の論争
加藤弘之は、『人権新説』で社会進化論(適者生存・優勝劣敗)を説き、天賦
人権論を批判しました。
馬場辰猪は『天賦人権論』を、植木枝盛は『天賦人権弁』を著して反論しました。