概要
国立銀行条例の改正と西南戦争の戦費捻出で、日本国内の不換紙幣は増加を続けました。貴金属を含むことで価値を裏付けられた金貨や銀貨とは違って、不換紙幣は大量発行に伴って信用を失い、額面の価値で扱われなくなりました。新政府は、金貨・銀貨1円と紙幣1円の価値を均衡させ、兌換可能にすることに挑みました。
政府の課題と大隈財政
政府の2つの課題
1870年代後半、日本国内では次の問題が生じていました。
Ⓐ1866年頃からの輸入超過で、日本の正貨が国外に流出し、保有量が枯渇寸前
Ⓑ1876年の国立銀行条例改正で、華族・士族が国立銀行を次々と開業し、不換
紙幣の銀行券を大量に発行(紙幣価値の下落=物価の上昇)
Ⓒ1877年の西南戦争の戦費捻出に、不換紙幣の大量発行
正貨
素材価値と額面価値が等しい貨幣(例:1円金貨・1円銀貨)
不換紙幣の発行
政府の課題①―歳入の増加
新政府は、定額金納の地租を主な歳入としたため、毎年の歳入の増減がほぼありませんでした。
ⒷⒸの結果、物価が上昇し、歳入の増減がない新政府は財政困難に陥りました。
何らかの方法で、歳入を増加させる必要がありました。
新政府の財政困難
政府の課題②―兌換の再挑戦
ⒷⒸの結果、紙幣価値が下落し、正貨の価値と紙幣の額面の価値が不均衡になりました。
不換紙幣を処分して、正貨と紙幣の価値の差を減らし、正貨の蓄積にも努めました。
金銀(ここでいう正貨)と紙幣の引換え(兌換)の義務化に、再度挑戦しました。
貨幣・紙幣の理想と現状
大隈財政と政変による挫折
1880年、大蔵卿大隈重信は、次の政策で歳入の増加を図りました。
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工場払下げ概則公布
損失の多い一部の官営工場の払下げを認めた規則
- 酒造税などの増税
1881年の明治十四年の政変で大隈重信が新政府から追放され、政策は中断しました。
工場払下げ概則
払下げは、厳しい条件で実現が少なく、1884年の廃止後に本格化
1881年の開拓使官有物払下げ事件は、この規則を無視して違法
大隈重信
松方財政
松方財政と銀本位の兌換制度
1881年、大蔵卿となった松方正義
は、次の政策にまず取り組みました。
- 歳入の増加:増税や新税の新設
- 歳出の緊縮:軍事費を除く行政費の削減
- 歳入の余剰で、不換紙幣の処分(紙幣価値の上昇)と正貨の蓄積(兌換の準備)
松方正義
松方財政
1883年、国立銀行条例再度改正
国立銀行から銀行券の発行権を取り上げて、その役割を「普通銀行」に転換
結果、1882年設立の日本銀行が、国内唯一の発行権をもつ「中央銀行」
1885年、銀貨の価値と紙幣の額面の価値に、差がほとんどなくなりました。
同年、日本銀行は銀兌換の銀行券を発行し、翌年、政府紙幣の銀兌換も開始しました。
貨幣への信用を「銀」の希少価値で支える貨幣制度銀本位、これに基づく兌換制度銀本位制がここに確立された。
銀本位制
国際的には金本位制が主流であったが、日本は金保有量が少なくて断念
紙幣相場
銀本位制
(左:1厘銅貨/中:1円銀貨/右:1円日本銀行券)
松方財政の影響
松方財政の緊縮や紙幣価値の上昇で、米・生糸・繭などの価格が暴落しました。
ここに増税が加わり、農村には次の影響が見られた。
- 自作農:市場での換金が難しく、地租に苦しみ、土地を手放して小作農に転落
- 地主:貸金業や酒屋などを経営することで、現金を調達して地租を納め、所有地の一部を耕作するほか、小作農に貸つけて高率の現物小作料を取り立て
- 小作農:地主が取り立てる現物納の小作料で窮乏
1890年代、地主が耕作から離れ、小作料に依存する寄生地主
となっていきました。