概要
国会開設の勅諭公布後、自由民権運動は政権獲得を目指す段階へと進み、自由党・立憲改進党などが結成されました。しかし、各政党内には政府の抑圧・懐柔で亀裂が生じました。統率力を失った自由党、党首を失った立憲改進党は解散し、自由民権運動は失速しました。運動の再燃は、条約改正案への批判の激化を待たねばなりませんでした。
自由民権運動の失速
手を引く者と激化させる者
1881年からの大蔵卿松方正義による松方財政は、物価を下落させました。
農村の多くの者は、米・繭などの換金で生計を立てるため、物価下落で窮乏しました。
生活難の者は、自由民権運動から手を引く、あるいは運動を激化させました。
政党の内外の紛糾
国会開設の勅諭公布後、政府は、政権獲得を目指す自由民権運動の抑圧に臨みました。
板垣退助
立憲改新党は、旅行費の出所について、自由党を非難しました。
自由党も、立憲改新党の党首大隈重信と三菱の結託を非難しました。
政党同士の対立や政党内部の争いで、党内の統率力は失われました。
大隈重信
運動の過激化と自由党の解散
自由党員や農民は、政府の不況下の増税や政党弾圧を受け、直接行動に臨みました。
次の過激な事件と鎮圧の繰り返しで、自由民権運動は次第に衰退していきました。
- 1882年、福島事件
福島県令三島通庸
が、労役で県道をつくろうとし、農民が抵抗した事件
自由党は訴訟で支援しただけだが、三島通庸が河野広中
を首謀者として検挙し、この事件を皮切りに、各地で自由党の過激行動が頻発
三島通庸
河野広中
- 1884年、加波山事件
栃木県令に転任した三島通庸の圧政に対し、自由党員が県令暗殺を計画した事件
この事件直後、自由党は党内の統率に自信を失って解散
- 1884年、秩父事件
約3000人の農民が、旧自由党員の指導で困民党を組織し、負債の減免を求めて高利貸・警察・役所を襲撃し、軍隊派遣に発展した事件
- 1885年、大阪事件
旧自由党員大井憲太郎や景山英子が、独立党の政権樹立を助けて、日本人の政治への関心を喚起しようとし、逮捕された事件
甲申事変
1884年、朝鮮の親日派金玉均ら独立党が、服属していた清からの独立と、朝鮮の内政改革を目指して政権獲得に挑み失敗(甲申事変)
自由党の騒擾事件
立憲改進党の弱体化
1884年、立憲改進党の党首大隈重信が離党し、立憲改進党は勢力を弱めました。
大隈重信
離党後、外交手腕を買われ、井上馨の後任の外相として政府に復帰
大隈重信
条約改正③と運動の再燃
鹿鳴館外交
岩倉具視・寺島宗則の条約改正交渉の失敗後、外務卿井上馨が後を継ぎました。
1882年、井上馨は東京で欧米の代表との予備会議を開き、86年から正式会議に移しました。
井上馨
井上馨は、改正のために欧米の歓心を買おうと、極端な政策欧化政策をとりました。
欧化政策は、英人コンドルが設計した鹿鳴館での舞踏会に象徴され、日常からかけ離れた軽薄な西洋の真似事だと批判されました。
鹿鳴館
鹿鳴館での舞踏会
ビゴーによる欧化政策の風刺画
不平等条約への強まる反感
1886年、
ノルマントン号事件
神戸に向かう英貨物船が難破し、英人船長ら乗組員は無事に脱出したが、日本人船客25人が船中に残されて水死した事件
事件の裁判は、領事裁判権に従って英領事がおこない、全乗組員が無罪判決(再審で船長のみ禁固3ヶ月)
この一件を契機に、世論は条約改正による領事裁判権の撤廃を強く求めました。
ビゴーによるノルマントン号事件の風刺画
*1887年のメンザレ号の遭難事件にノルマントン号事件を重ね、イギリスの対応の悪さを非難
条件付きの改正案
1887年、欧米諸国は領事裁判権を撤廃する改正案に、次の条件付きで一応了承しました。
- 被告が外国人の裁判では、半数以上の外国人判事を採用
- 外国人に日本国内での居住・旅行・営業を許可(内地雑居)
政府内部にさえも、上の条件は国家主権の侵害であると批判が起こりました。
運動の再燃と交渉の中止
国会開設の年「1890年」が近づくと、自由民権運動は息を吹き返し始めました。
旧自由党員星亨・後藤象二郎は、思想の小異よりも目的の大同を優先し、立憲改進党と団結して国会開設に備えようと大同団結運動を推進しました。
後藤象二郎
1887年、星亨
は、井上馨外相の条約改正交渉への反対に、次の3つを主張する三大事件建白運動を推進しました。
- 地租の軽減
- 言論・集会の自由
- 外交失策の回復(対等条約の締結)
井上馨外相の交渉は、政府内部からの批判や民衆からの批判を受けて中止されました。
星亨
運動再燃への対処
1887年、
保安条例公布
内乱陰謀・治安妨害の疑いがある者を遠方へ追放する法令で、星亨らを追放