概要
19世紀末、欧米列強は大義なき植民地獲得を始めました。これを「帝国主義」と呼びます。「文明国か否か」は、欧米列強の支配を免れる基準ではすでになくなっていました。国力が物を言う時代、日本も日露戦争で獲得した利権で帝国主義の渦に飛び込み、領土獲得による国力強化を目指しました。それは、日本の命運を決める分岐点でもありました。
日本と大韓帝国
韓国の保護国化
ロシアは、ポーツマス条約で、大韓帝国に対する日本の諸権限を認めました。
大韓帝国が大国に再び接近しないように、日本はその保護国化を急ぎました。
次の2国も、日本が大韓帝国を保護国化することを認めました。
- アメリカ
1905年、桂・タフト協定締結
- イギリス
1905年、日英同盟協約改定
保護国化
外国の干渉防止を目的に、外交権をもたない国にすること
新日英同盟記念絵葉書
*三越呉服店のPR用
1905年、
第二次日韓協約締結
- 大韓帝国の外交権を獲得
- 首都漢城(現ソウル)に外交を統轄する統監府を設置
初代統監は伊藤博文
第一次日韓協約
日露戦争中、日本の軍事制圧下で締結した協約で、日本の推薦する財政・外交顧問採用を約束
韓服をまとう伊藤博文
*画像中央の人物
韓国皇太子と伊藤博文
1907年、
ハーグ密使事件
大韓帝国皇帝高宗が、オランダのハーグでの万国平和会議に、非公式に使いを送り、保護国化の無効を欧米列強に訴えた事件
大韓帝国が外交権をもたないため、欧米列強は訴えを無視
密使の3人
1907年、
第三次日韓協約締結
皇帝高宗がハーグ密使事件の責任で退位したことを契機に締結した協約
高宗
義兵運動の高揚
大韓帝国では、民衆による反日武装闘争義兵運動が生じていました。
第三次日韓協約で解散した旧軍隊が義兵運動に加わり、運動は全国化しました。
義兵運動
韓国の植民地化の方針
次の主張から、日本政府内で大韓帝国の植民地化の賛否が議論されました。
- 満州に関心を示したアメリカが、韓国にも干渉する可能性あり
- 国力強化のために、朝鮮半島を足がかりに大陸へ進出する必要性あり
1909年、大韓帝国を植民地化する方針が決まりました。
暗殺事件
1909年10月、ロシアとの会談に向かう伊藤博文が、ハルビン駅で義兵運動家安重根
に暗殺されました。
安重根(1879~1910年)
伊藤暗殺の犯人とされますがこれには諸説あります。朝鮮支配の象徴として伊藤を捉えて暗殺に及び、私怨は全くなく、韓国・日本の友好を望んでいました。その意味で、伊藤博文の本意を知らないにしても、動機は純粋でした。今日の韓国の英雄で、記念切手が発行されています。
安重根の切手
幕末を駆け抜けた巨頭―伊藤博文
伊藤博文は、明治天皇の信任厚く、初代内閣総理大臣・初代統監を務めました。朝鮮人の恨みを買うことを十分承知しながらも、その政治の腐敗を正すために統監として保護国化を進めました。併合には反対しており、仮に併合しても韓国が国力をつけるまでと期限付きで考えていました。死の間際、朝鮮人の犯行と聞いて「馬鹿な奴だ」とつぶやきました。
韓国の植民地化―韓国併合
1910月、
韓国併合
日本による大韓帝国の植民地化
首都漢城を京城と改称し、統治機関朝鮮総督府を設置
当初、朝鮮総督は現役軍人から任命され、初代は寺内正毅
朝鮮総督府
朝鮮総督府は、土地調査事業を進め、土地の測量や所有権の確認をしました。
所有権が不明確な土地は接収され、その一部は、日本人地主や1908年に設立した国策会社東洋拓殖会社に払い下げられました。
東洋拓殖会社
日本と満州
日本の満州進出
ポーツマス条約で、日本は満州に関する次の権利を得ました。
- 清からの旅順・大連の租借権
- 東清鉄道の長春以南とその付属の利権(沿線の幅約62mの土地)
半官半民の国策会社南満州鉄道株式会社(略称:満鉄)が大連に設置され、初代総裁は後藤新平が務めました。
南満州鉄道株式会社は、旅順・長春間の旧東清鉄道と沿線の炭鉱などを経営しました。
1906年、旅順・大連を含む遼東半島南端関東州と満鉄付属地を統治する関東都督府が旅順に設置されました。
満州と東清鉄道
*色塗り部分が「満州」
関東州
南満州鉄道株式会社(本社)
後藤新平
アメリカの満州への関心と日本人蔑視
アメリカも満州に関心を示し、門戸開放を唱えて日本の独占状態の廃止を訴えました。
- 1905年、アメリカ鉄道企業家ハリマンが、満鉄共同経営を提案
- 1909年、アメリカ政府が、満鉄の中立化を列強に提唱
日本がこれらを拒否すると、日米関係は急速に悪化していきました。
黄禍論に基づくアメリカ人の日本人蔑視は、満州をめぐる対立で表面化しました。
カリフォルニアを中心に、日本人移民排斥運動が高まりました。
1906年には、サンフランシスコで日本人学童の入学拒否事件が起きました。
日本人移民への警戒
1911年にアメリカで刊行された黄禍論の本