日露戦後経営

表記について
概要
1900年代初期の約12年間、桂太郎と立憲政友会の西園寺公望が交互に内閣を組織し、藩閥官僚勢力と政党勢力の提携と抗争が続きました。この時代は「桂園時代」とも呼ばれ、日英同盟成立から日露戦争、そして韓国併合に至りました。日本の国際的地位の向上は目覚ましく、また、日本を取り巻く国際関係も大きく変化しました。

日露戦争が変えた国際関係

同盟と協商の変化

日露戦争後、ロシアは東アジアでの南下を諦め、矛先を再び西側へ向けました。
ロシアはバルカン半島を狙い、同半島を狙うドイツと対立を深めました。
上記の動向に応じて、国際関係は次のように変化しました。

日露戦争前後の国際関係
*左:戦前/右:戦後
国際政治を変えた戦艦―ドレッドノート
ドレッドノート(恐れを知らぬ者)は、1906年にイギリスで建艦された、世界初の近代的で圧倒的火力とスピードを持つ戦艦でした。各国はこの艦を恐れ、抑止力にドレッドノート級( 級)あるいは超弩級の建艦を急ぎました。その意味で弩級戦艦は今日の「核兵器」と同じ性格をもちます(核の抑止力)。
さて、ドレッドノートは途中燃料を石炭から重油に変更しました。石炭は燃料補給が煩わしく、煤煙 ばいえん も濃黒色で目視されやすいのです。対する重油は2倍の熱効率をもち、煤煙も目立ちません。しかし、イギリスは国内で十分な重油を確保できません。そこでイギリスは中東の産出国に目をつけました。

清の滅亡

漢人の孫文は、日露戦争での日本の勝利に励まされました。
孫文は、「民族(満州人の王朝清の打倒)・民権(共和国の建設)・民生(貧富の差の抑制)」の三民主義を理念に、その実現を目指しました。

孫文
1911~12年、辛亥しんがい革命
孫文を臨時大総統とする中華民国が成立し、清の打倒と皇帝溥儀ふぎの退位を実現した革命
孫文は、軍閥ぐんばつの首領袁世凱えんせいがい の協力で溥儀の退位を実現したため、見返りに臨時大総統の地位を袁世凱に譲りました。
軍閥
中国において、自分自身の軍隊を養い、地方を支配した軍人

袁世凱

桂園時代

政界の第一線からの引退

老齢の山県有朋や伊藤博文は、政界の第一線から退きました。
彼らは、非公式に天皇を補佐する元老として首相の選任権を握りました。

山県と伊藤の後継者

1901年から10年間以上、山県有朋の後継者桂太郎と伊藤博文の後継者西園寺公望さいおんじきんもちが、首相を交互に務めました。
この時期を2人の苗字から1字ずつとって桂園けいえん時代と呼びます

桂太郎

西園寺公望

第1次桂太郎内閣|1901年6月~1906年1月

1901年、山県の後継者桂太郎が、藩閥官僚中心の内閣を組織しました。
日英同盟協約締結から日露戦争を経てポーツマス条約締結に至る長期政権となりました。
しかし、日比谷焼打ち事件で支持を失い、総辞職しました。

第1次西園寺公望内閣|1906年1月~1908年7月

伊藤博文の後継者西園寺公望さいおんじきんもちは、立憲政友会の総裁となりました。
西園寺公望は、鉄道・港湾の拡充を掲げ、着実に支持を集めていきました。
1906年、政党内閣である第1次西園寺公望内閣が組織され、次のことを実施しました。
社会主義
計画的な生産と富の均等配分で、貧富の格差消滅を目指す思想
無政府主義
国家の政治権力を一切否定し、個人の完全な自由を目指す思想
1901年に片山せん・幸徳秋水・安部磯雄いそお・木下尚江なおえ らが結成した日本初の社会主義政党社会民主党は、第2次山県有朋内閣で成立した治安警察法で即座に強制解散

鉄道の発展
*1906年の鉄道国有法で国有鉄道の急増
社会主義の取締りに対する批判を浴び、第1次西園寺公望内閣は総辞職しました。

第2次桂太郎内閣|1908年7月~1911年8月

第2次桂太郎内閣は、次のことを実施しました。

戊申詔書

帝国在郷軍人会
政策実行の成果が出たとして、第2次桂太郎内閣は総辞職しました。