本格的な政党内閣

表記について
概要
1918年9月に成立した原敬内閣は、日本で最初の本格的な政党内閣であり、憲政史上の一新紀元として受け止められました。「本格的」というのは、首相の原が、戊辰戦争で朝敵の汚名を被った東北諸藩の出身であり、藩閥出身者でも華族でもなかったからです。民衆は、原の首相就任に薩長藩閥支配の凋落を見ました。

政党内閣と非政党内閣

新たな政治思想

民衆の政治意識の高揚は、大正政変で第3次桂太郎内閣を退陣させ、さらに政治思想にも大きな影響を与えました。
1916年、吉野作造さくぞうがデモクラシーの訳語民本主義を提唱しました。
民本主義
主権在君の下で国民の利益のために政治をおこなうことであり、 主権在民の「民主主義」とは異なる考え
総合雑誌『中央公論』で発表

吉野作造

ビリケン内閣と米騒動

寺内正毅内閣|1916年10月~1918年9月

1916年、陸軍大将で初代朝鮮総督そうとくを務めた寺内正毅てらうちまさたけが、議会に支持政党をもたない内閣「超然内閣」を組織しました。
そのため、寺内正毅内閣は全政党に協力を求める「挙国一致」を標榜しました。

寺内正毅
民衆が政治の民主化を求める中、このような内閣が登場したことは、「非立憲」だと非難されました。
1916年、立憲同志会が改称して憲政会となり、内閣に対抗しました。
1917年、寺内正毅は衆議院を解散し、第13回総選挙を実施しました。
結果、内閣に接近中の立憲政友会が、衆議院第一党となりました。

第13回総選挙
寺内正毅は、立憲政友会代表の原敬と立憲国民党代表の犬養毅を、臨時外交調査委員会に取り込み、外交方針での挙国一致を図りました。
1918年、米騒動
下記3点を背景とする米価高騰に、富山県の漁村の主婦たちが蜂起し、それを機に全国の都市でも人々が米価引き下げ・安売りを求めた暴動
背景①:工業労働者の増加と人口の都市集中による米の消費増加
背景②:寄生地主制のもとでの農業生産の停滞
背景③:シベリア出兵を見越した米の買い占め
責任を追及する世論に、寺内正毅内閣は退陣に追い込まれました。

米価の高騰
井戸端会議から全国へ―米騒動
1918年7月22日夕方、富山県の漁民の主婦3~4人が、井戸端で米の高騰の理由を話しました。他府県への米の積み出しを原因と捉え、その中止を求めた彼女らの行動は、やがて全国へ影響し、断続的な騒動を巻き起こしました。

期待の内閣と民衆の失望

原敬内閣|1918年9月~1921年11月

民主的な政治を求める民衆を前に、元老もようやく政党内閣を認めました。
1918年、立憲政友会の総裁原敬はらたかし が内閣を組織しました。
原敬は、華族でも藩閥でもない、衆議院に議席をもつ首相であったため、「平民宰相さいしょう」と呼ばれ、民衆から歓迎されました。

原敬
1918年、大学令公布
帝国大学の他に、公立・私立大学や単科大学の設立を認めた勅令
慶応義塾・早稲田など専門学校が大学として昇格・認可
民衆は、原敬に普通選挙の導入を期待しました。
しかし、原敬自身は導入に反対で、次の2策の実施にとどまりました。
そのため、1920年には普通選挙を要求する大運動が起こりました。
普通選挙
成人した者に選挙権を認める制度で、対義語は制限選挙

普通選挙を要求する尾崎行雄
憲政会などの野党は、衆議院に男性普通選挙法案を提出しました。
原敬は、時期尚早と衆議院を解散させ、第14回総選挙を実施しました。
立憲政友会は、鉄道拡充・高等学校増設を掲げ、総選挙で圧勝しました。

第14回総選挙
1920年、大戦後の反動で恐慌が日本を襲い、汚職事件も多発しました。
1921年、原敬は政党政治の腐敗に憤激した青年に暗殺されました。

短命の内閣

高橋是清内閣|1921年11月~1922年6月

1921年、立憲政友会の総裁高橋是清これきよ が内閣を継承しました。

高橋是清
1921~22年、ワシントン会議
軍縮および極東・太平洋問題をアメリカ主導で協議した国際会議
支持母体である立憲政友会の内部対立で、内閣は総辞職しました。

3代連続の非政党内閣

1922年6月~1924年6月

高橋是清内閣の後、非政党内閣が3代続きました。

加藤友三郎

山本権兵衛

清浦奎吾