概要
貴族院を基礎として成立した清浦奎吾内閣は、立憲政友会のほんの一部の支持を受けることができたのみで、残りの政党勢力は、内閣打倒の護憲三派の提携を作りました。総選挙で護憲三派が勝利した結果、元老は第一党になった憲政会の加藤高明を首相に推薦し、加藤は立憲政友会・革新倶楽部の協力を得て、連立内閣を組織しました。
3代の非政党内閣
普通選挙の検討と挫折
高橋是清内閣が短命に終わった後、非政党内閣が3代続きました。
高橋是清
加藤友三郎内閣|1922年6月~1923年9月
1922年、非政党内閣の加藤友三郎内閣が組織されました。
加藤友三郎内閣は、普通選挙の導入を検討し始めたが、加藤友三郎の病死で中断されました。
加藤友三郎
第2次山本権兵衛内閣|1923年9月~1924年1月
1923年、非政党内閣の第2次山本権兵衛
内閣が組織されました。
山本権兵衛内閣は、普通選挙の導入の準備を進めていきました。
山本権兵衛
1923年9月1日、
関東大震災
関東地方を襲った大地震で、混乱に乗じた運動・犯罪への恐怖から事件誘発
甘粕事件:無政府主義者大杉栄と内縁の妻伊藤野枝が、憲兵大尉甘粕正彦に殺害された事件
亀戸事件:社会主義者10人が軍隊・警察に殺害された事件
中国人・朝鮮人が被災の混乱下でおこなった犯罪について、事実・流言の混じった報道で、一部の官憲や自警団による殺傷事件が発生
関東大震災
大杉栄
1923年、
虎ノ門事件
無政府主義者難波大助が、裕仁
親王(後の昭和天皇)を、虎の門付近で狙撃した事件
山本権兵衛内閣は責任をとって総辞職し、難波大助は大逆罪で死刑
難波大助
貴族院の内閣
清浦奎吾内閣|1924年1月~1924年6月
1924年、松方正義・西園寺公望ら元老は、政党と距離を置く者を首相に望み、枢密院の議長清浦奎吾を選びました。
清浦奎吾は、陸相・海相を除く大臣を貴族院から選び、非政党内閣を組織しました。
清浦奎吾
憲政会・立憲政友会・革新倶楽部
の護憲三派は、清浦奎吾内閣を超然内閣と捉え、その打倒運動第二次護憲運動を始めました。
内閣は、立憲政友会内の反高橋是清派が組織した政党政友本党を味方にし、議会を解散して総選挙に臨みました。
総選挙が護憲三派の圧勝に終わり、内閣は総辞職しました。
護憲三派と憲政本党
*台の上が清浦奎吾
憲政の常道へ
護憲三派内閣の成立
加藤高明内閣|1924年6月~1926年1月
衆議院第一党憲政会の総裁加藤高明が、3党の連立内閣を組織しました。
加藤高明内閣は、外相幣原喜重郎
による協調外交、所謂幣原
外交を基本としました。
加藤高明
幣原喜重郎
幣原外交下で、加藤高明内閣は、国外に対して次の2つを実施・経験しました。
内閣は、国内に対して次の2策を実施しました。
- 1925年、普通選挙法公布
満25歳以上の男性に、納税額に関係なく衆議院議員の選挙権を与えた法令
結果、有権者が従前の4倍に増加
- 1925年、治安維持法公布
国体(天皇制)の変革、私有財産の否認を目的とする結社を禁止した法令
目的は、日ソ国交樹立や普通選挙実施による社会主義の活発化抑制
第一次護憲運動から男子普通選挙制の成立までの風潮を大正デモクラシーと呼称
選挙人率の推移
*男性・満25歳以上
1925年、立憲政友会が、陸軍・長州閥の田中義一を総裁に迎え、また、他政党の革新倶楽部を吸収しました。
結果、護憲三派の提携が崩れ、加藤高明の病死で内閣は総辞職しました。
田中義一
憲政の常道
加藤高明内閣の成立から1932年の犬養毅
内閣の崩壊まで、憲政会(後の立憲民政党)と立憲政友会の総裁が交代で政党内閣を組織しました。
この8年間は、衆議院に議席を多くもつ政党が内閣を担当する慣例が守られ、その慣例を憲政の常道と呼びます。
加藤高明(左)・犬養毅(右)
藩閥の変化と解体―伊藤博文・山県有朋
明治時代後半、政治参加に好意的な勢力は伊藤博文のもとに、反発する官僚・軍部は山県有朋のもとに集結しました。かつての藩閥は、伊藤系・山県系に再編され、薩長土肥という地域色が薄まりました。さらに明治末期、伊藤・山県は第一線から退き、元老として政治に介入、そのもとで伊藤系の西園寺公望・山県系の桂太郎が政権を担当しました。1909年の伊藤の死以降、山県は元老の筆頭となり、自派の者を様々な組織に配置して人事権を握りました。大正時代に入っても、山県は影響力をもちました。しかし、1922年に山県が亡くなると、やがて山県系の藩閥は解体していきました。