概要
第一次世界大戦の終結後、日本経済は空前の好景気から、慢性的な不況へと一変しました。いわゆる戦後恐慌です。そして、1923年に関東大震災が発生すると、日本経済はいよいよ逼迫してきました。企業の経営内容も悪化し、銀行の倒産も相次ぎました。このような暗い状況下、日本は昭和という新しい時代を迎えました。
恐慌の時代
大戦景気からの恐慌
第一次世界大戦中の日本は、欧州諸国の抜けたアジア市場で大戦景気を迎えました。
大戦後、欧州諸国が復興を遂げてアジア市場に戻ると、日本は苦境に立たされました。
貿易額の推移
1919年以降、日本の貿易は輸入超過に転じ、国産品の消費が圧迫されました。
1920年、商品の売れ残りが会社の信用低下や株式市場の暴落に繋がり、綿糸・生糸の相場が半値以下になるほどの経済停滞戦後恐慌が生じました。
再度の恐慌
第2次山本権兵衛内閣|1923年9月~1924年1月
1923年9月1日、大地震関東大震災が発生しました。
多くの会社が被災したため、銀行は、手形の立替えを決済できなくなりました。
震災の混乱・被害で決済が不可能になった手形震災手形は多く、ほとんどの銀行が、日本銀行からの援助で一時しのぎを図る苦境に陥りました。
このような震災による経済停滞を震災恐慌と呼びます。
手形
A社がB社に一定の金額の支払いを約束した証券のことで、ひとまずA社は銀行にB社への支払いを任せ、後日立替え分を決済
震災手形の増加
再々の恐慌
第1次若槻礼次郎内閣|1926年1月~1927年4月
加藤高明の病死後、憲政会の総裁を継いだ若槻礼次郎
が、内閣を組織しました。
同年、大正天皇の死去に伴い、昭和天皇が即位して、元号も昭和と改元されました。
若槻礼次郎
1927年、蔵相片岡直温が東京渡辺銀行の危うい経営状態を発言したことで、人々が預金の払戻しを焦る「取付け騒ぎ」が起こりました。
騒ぎで銀行の休業が続出し、経済停滞金融恐慌が生じました。
片岡直温
取付け騒ぎ
鈴木商店が経営破綻し、融資をしていた台湾銀行が危機に陥りました。
若槻礼次郎内閣は、台湾銀行救済の緊急勅令を求めたが、枢密院で否決されました。
若槻礼次郎内閣は、否決の責任をとって総辞職しました。
緊急勅令
帝国議会の閉会中に必要となった勅令で、可否は枢密院で採決
恐慌の収拾
田中義一内閣|1927年4月~1929年7月
1927年、立憲政友会の総裁田中義一が、内閣を組織しました。
田中義一
田中義一内閣は、モラトリアム(支払猶予令)を出して、銀行に預金の払戻し停止を許し、その間紙幣を大量発行するなど銀行再開に備えました。
対策は効果を上げ、金融恐慌はようやく鎮まりました。
日本経済の課題
大正から昭和初期、日本経済は次の2つの課題を抱えました。
金輸出禁止
実施中の貿易は、為替相場となり、円安が進行
輸入超過と金輸出禁止
共産党の影
無産政党の登場
1925年の普通選挙法公布後、普通選挙制による総選挙に備えて、社会主義勢力の政党(無産政党)が結成され始めました。
1925年、農民労働党が結成されたが、共産党との関係を理由に活動禁止となりました。
1926年、農民労働党の共産党系を除外して、労働農民党が結成されました。
労働農民党内で共産党系が増えると、労働農民党から次の2派が分裂・離脱しました。
- 社会民衆党
議会を重視し、また、国民全体の利益を追求する派閥
- 日本労農党
労働農民党と社会民衆党の中間的立場をとる派閥
無産政党の登場
共産党への警戒
田中義一内閣|1927年4月~1929年7月
1928年の普通選挙制による初の総選挙で、無産政党8名が当選しました。
選挙に際して、日本共産党が労働農民党の背後で活動していました。
田中義一内閣は、このことに危機感を抱き、次の4つをおこないました。
日本共産党の活動