北伐と中国統一

表記について
概要
1926年、北伐が開始され、日本の権益と居留民が危険にさらされました。田中義一内閣は、この事態に直面して3度にわたる山東出兵をおこないました。またこの内閣は、満州における権益の守備の仕方について、関東軍と考えを異にしましたが、その一部が起こした張作霖爆殺事件の責任を負って退陣するのやむなきにいたりました。

中国統一の動き

軍閥の割拠

1916年、中華民国の大総統であった軍人袁世凱えんせいがいが死没しました。
袁世凱の配下の部将たち軍閥ぐんばつが各地で抗争を始め、中国内は分裂しました。
次の2つの団体が組織され、軍閥打倒・中国統一を目指しました。
1924年、両団体の協力関係第1次国共合作が実現しました。

北伐の開始

孫文の死後、蔣介石しょうかいせき が中国国民党の指導者となりました。
1926年、蔣介石は中国国民党で編成した軍隊(国民革命軍)をつくり、軍閥打倒・中国統一のために、広州から北上する北伐ほくばつを始めました。

蔣介石

中国大陸
北伐が進行する中、蔣介石は協力関係にあった中国共産党の弾圧を始め、1927年には、南京に国民政府を樹立しました。

山東半島の日本人保護

1922年の山東懸案解決条約締結後も、山東省における日本の権益は少し残されました。
国民革命軍は各国居留民の殺害事件を起こしており、日本人居留民も脅威にさらされました。

山東省

田中義一内閣|1927年4月~1929年7月

1927~28年、山東出兵
田中義一首相が、日本人居留民保護を目的に、山東省に3度出兵したこと
この間に東方会議を開き、中国における権益を実力で守る強硬方針を確認
2度目の出兵時に、日本軍・国民革命軍が済南さいなんで武力衝突する事件が発生(済南事件
必要に迫られた出兵―山東出兵
1927年3月、国民革命軍が日本を含む各国の領事館と居留民を襲いました。国民革命軍は規律が取れておらず、婦女の陵辱におよぶ者もいました。これに対して米英は報復をおこない、また、日本は日本人居留民の保護を目的に出兵しました。下図は、日本軍に守られて学校へ向かう日本人の子どもたちです。しかし、日本人居留民への襲撃は全て防ぎきれず、済南事件が生じました。

関東軍の計画と失敗

1919年、関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端)の統治機関関東都督府が、行政担当の関東庁と軍事担当の関東軍に分離しました。
関東軍は、関東州・満鉄沿線の守護と居留民の保護を担い、また、満州の軍閥張作霖ちょうさくりん の支援して国民革命軍の進行を防ごうとしました。

関東州

張作霖の役割

田中義一内閣|1927年4月~1929年7月

1928年、張作霖爆殺事件
関東軍の一部が、国民革命軍に寝返る気配を見せた張作霖を列車ごと爆破し、混乱に乗じた満州の支配を画策した事件
田中義一は、真相公表と厳重処分を昭和天皇に誓ったが、閣僚・陸軍の反対を受けて、首謀者河本大作こうもとだいさくの停職処分に方針転換
張作霖爆殺事件
事件の内容を国民に隠すため、満州某重大事件と当初呼称

張作霖爆殺事件
約束を違えた田中義一は、昭和天皇から叱責され、1929年に総辞職しました。

中国統一の達成

張作霖の子張学良ちょうがくりょう は、事件の真相を知っており、日本の指示を無視して、勢力下の満州を国民政府支配下の土地と認めました。
ここに北伐は完了し、国民政府による中国統一が達成されました。
易幟えきし
国民政府との合流に際して、張学良が忠誠を表明するために、国民党の旗「青天白日旗せいてんはくじつき」を満州全域に掲げたこと

張学良

青天白日旗
この頃の中国では、諸外国に与えた権利などの回収を目指す気運が高まりました。
1931年、国民政府は不平等条約の無効を一方的に宣言し、また、日本の権益(租借地や満鉄経営など)も回収しようとし始めました。

逆風に立つ日本

右翼の一源流

日本は、1919年のパリ講和会議に戦勝国として臨みましだが、権益について諸外国から予想外の批判を浴びました。
このような時代背景下、次の2人が日本の進むべき道を模索しました。
彼らに影響された軍や右翼は、後に国家改造運動を進めていきました。
右翼
天皇制などの日本的な伝統を重視し、特に排外的な傾向を持つ勢力

北一輝

大川周明

満蒙の危機

国民政府による日本の権益の回収は、日本にとって大きな脅威となりました。
軍や右翼は、「満蒙の危機」を叫び、幣原喜重郎しではらきじゅうろうによる協調外交を批判しました。
満蒙
満州と蒙古族の居住地域である蒙古を合わせた地域