概要
第一次世界大戦後、金輸出解禁をおこなわなかった日本は、為替相場の変動に悩まされ、何回も金輸出解禁を試みましたが、そのたびに関東大震災や金融恐慌などによって実行できませんでした。浜口雄幸内閣は、遂に金輸出解禁を実行しましたが、おりから発生した世界恐慌と重なって、日本経済は激しい昭和恐慌へとたたき込まれました。
昭和恐慌
金輸出解禁への期待
第一次世界大戦が起こると、各国は金本位制停止(金輸出禁止)をしました。
1917年に日本も停止すると、日本円の為替相場は下落し続けました。
金輸出禁止の解除金輸出解禁に成功すれば、為替相場は安定します。
欧米が金輸出解禁に成功していく中、日本の財界は金輸出解禁を強く望みました。
旧平価
金輸出禁止前の日本円の為替相場(100円=50ドル)
新平価
1928年の日本円の為替相場(100円=46.5ドル)
金輸出禁止と為替相場の変動
最悪の時期での解禁
浜口雄幸内閣|1929年7月~1931年4月
1929年、
立憲民政党の
浜口雄幸内閣が組織された。
浜口雄幸
蔵相となった前日銀総裁井上準之助
は、1930年1月、旧平価による金輸出解禁に踏み切りました。
旧平価にした理由には、次の2つが挙げられます。
- 日本経済の国際信用を維持・強調
日本円の為替相場の高低は、日本経済の国際信用の高低を意味
- 産業合理化で物価を引下げ、商品の安さで輸出を促進
100円で46.5ドル分しか買えない状態が50ドル分買える状態になり、輸出が減少して輸入が増加
輸出不利の環境下で、不良企業の整理や企業の努力による成長に期待
井上準之助
旧平価での金輸出解禁
この時期、1929年からのアメリカ発の経済停滞世界恐慌が、各国へ影響し始めていて、各国の物価が下がっていました。
日本の商品が安くなっても輸出は伸びず、金の流出・企業の倒産が続きました。
1930年、金輸出解禁・世界恐慌の重なりによる経済停滞昭和恐慌が生じました。
暗黒の木曜日
*世界恐慌の始まり
輸出額の国際比較
1931年、
重要産業統制法制定
カルテル(企業間での販売価格の下限や生産数の取決め)を奨励する法律
困窮する農村
世界恐慌の影響で、アメリカへの生糸の輸出が大幅に減少しました。
農家の重要な収入源である繭まゆの価格が大暴落しました。
農産物価格の推移(1929年=100)
1930年、米価・農産物価格が豊作のために下落し、農家の収入が減りました。
また、1931年、北海道や東北地方中心に冷害による大凶作となりました。
昭和恐慌の影響で、農村では欠食児童や農家の娘の身売りが問題となるなど、農家が著しく困窮する農業恐慌が生じました。
大根をかじる子ども
協調外交の行き詰まり
対アジアの強硬姿勢
田中義一内閣|1927年4月~1929年7月
田中義一内閣は、幣原喜重郎による協調外交を批判し、対中国の強硬方針を決めましたが、対欧米諸国では協調外交を維持しました。
1928年、
不戦条約(
パリ不戦条約)調印
国家の政策の手段としての戦争放棄を約した条約
天皇主権の憲法をもつ日本は「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」の箇所を削除
協調外交の再開
浜口雄幸内閣|1929年7月~1931年4月
浜口雄幸内閣は、幣原喜重郎を外相に起用し、協調外交を展開しました。
1930年、日中関税協定
関係改善を目的に、中国の関税自主権を承認した協定
1930年、
ロンドン海軍軍縮条約締結
ロンドン海軍軍縮会議において、米・英・日の補助艦保有率を「10:10:7」に制限した条例
海軍の一部に反対されたが、内閣は調印を決意
補助艦
偵察や主力艦(戦艦・航空母艦)の護衛をおこなう軍艦
立憲政友会・海軍軍令部・右翼は、内閣が兵力量を決定したことを、「統帥権とうすいけん
の干犯」であると批判しました。
内閣は、枢密院の同意を取りつけて、条約の批准に成功しました。
1930年、浜口雄幸首相は、東京駅で右翼の青年に狙撃されて重傷を負い、翌年に退陣し、まもなく死亡しました。
統帥権
天皇の軍隊指揮統率権だが、慣例として兵力量の決定は内閣が掌握
統帥権と兵力量
狙撃された浜口雄幸
野党による与党攻撃の材料―統帥権の干犯
兵力量の決定が統帥権に属すか否かは、大日本帝国憲法に明記されていませんでした。これは憲法の欠点でしたが、内閣に属し運営されることを慣例としていました。しかし、野党の立憲政友会の犬養毅・鳩山一郎は、与党の立憲民政党を攻撃するために、統帥権の干犯を主張しました。皮肉なことに、この一件で軍部が台頭し、彼ら政治家は発言力を失っていきました。