満州事変と軍部の台頭

表記について
概要
満州における日本の権益が侵害されるなか、関東軍の一部が危機感を強め、柳条湖事件を起こしました。事件は、満州事変へと発展し、間もなく満州全域が関東軍の占領下に置かれました。関東軍は、民族自決の原則に基き、同地域に満州人の国家「満州国」を建国し、同国に日本と関係を結ばせて、日本の権益の強化などを図りました。

満州事変と満州国建国

満州事変の開始

第2次若槻礼次郎内閣|1931年4月~1931年12月

1931年、立憲民政党の第2次若槻礼次郎わかつきれいじろう 内閣が組織されました。

若槻礼次郎
1931年、柳条湖りゅうじょうこ事件
関東軍の参謀石原莞爾かんじ らが、奉天ほうてん郊外の柳条りゅうじょう で、満鉄の線路を爆破し、これを国民政府(中国軍)の行為とした事件
事件を起こした理由は、国民政府が日本の権益を侵害していたからであり、事件をきっかけに満州全域を占領し、権益の強化を画策
石原莞爾
将来の日米間の戦争を想定し、満州を占領する必要があると主張

満州

石原莞爾
柳条湖事件後、関東軍は国民政府の軍隊と武力衝突を重ねていき、ここに所謂いわゆる満州事変が始まりました。
満州事変に対し、若槻礼次郎内閣は戦線の不拡大を呼びかけましたが、戦線は世論・マスコミの支持を受けて拡大を続けました。
若槻礼次郎内閣は、事態の収拾に自信を失って総辞職しました。

満州国の建国

犬養毅内閣|1931年12月~1932年5月

1931年、立憲政友会の犬養毅内閣が組織されました。

犬養毅
1932年、第一次上海事変
満州事変で排日運動が激化した結果、上海で日本人僧侶が殺害され、日本軍と国民政府の軍の衝突に発展した事件
1932年、満州の主要地域を占領した関東軍は、清の最後の皇帝溥儀ふぎ を執政とし、満州国の建国を宣言させました。
アメリカは、日本の一連の動きに不承認宣言をおこないました。
国際連盟理事会は、国民政府の訴えと日本の提案をうけ、リットンを団長とする調査団リットン調査団に事実調査をさせました。

溥儀

リットン調査団

満州移民

1900年代初めから、日本は欧米諸国での日本移民排斥に悩まされていました。
満州国の建国後、日本の疲弊した農村の人々は、満州へ移民しました。

満州移民の奨励

軍部の台頭

国家改造運動の活発化

1930年代初め、昭和恐慌のような日本の行き詰まりが、目立ち始めました。
陸海軍の青年将校や右翼は、この原因を財閥・政党などの無能と腐敗に求め、その打倒と新しい国家体制づくりを目指す運動国家改造運動を活発化させました。
青年将校や右翼は、政権樹立や要人殺害を次のように試みました。

橋本欣五郎

井上日召

団琢磨

政党内閣の崩壊

斎藤実内閣|1932年5月~1934年7月

財閥・政党が、青年将校や右翼の活動に脅かされていることをうけ、元老の西園寺公望は、穏健派の海軍大将斎藤まこと を次の首相に推薦しました。
ここに、加藤高明内閣からの「憲政の常道」に終止符が打たれ、政党政治・政党内閣は終戦まで復活しませんでした。

斎藤実
1932年、日満議定書調印
満州国は、同国における日本の権益の尊重と日本軍の駐屯の許可を、日本は、独立国として満州国を承認することを約した議定書

日満議定書の調印
1933年、国際連盟は、臨時総会でリットン調査団の報告書を審議し、満州国が日本の傀儡 かいらい国家であり、日本は満州国の承認を撤回すべきと勧告しました。
勧告が可決される中、日本全権代表松岡洋右ようすけは総会から退場しました。
1933年3月、日本は正式に国際連盟からの脱退を通告しました。

退場する松岡洋右

松岡洋右

満州事変の終息

斎藤実内閣|1932年5月~1934年7月

1933年、塘沽タンクー停戦協定(日中軍事停戦協定)
満州事変を終息させた、日本軍と国民政府間の停戦協定
この協定で、国民政府は日本の満州と熱河ねっか省の支配を事実上黙認
1934年、満州国は溥儀を皇帝とする帝政に移行しました。

非武装地帯の設定(斜線部)