金輸出再禁止と恐慌脱出

表記について
概要
1931年、蔵相高橋是清は、金輸出再禁止を断行しました。信用の低い日本円は、金の支えを失ったことで、大幅な円安を起こしました。しかし、この事態は予想されていました。欧米諸国が高い関税で自国の経済を守る中、日本は円安を利用して、それらの国々への輸出も伸ばしました。結果、日本は他国に先駆けて恐慌以前の水準を回復しました。

恐慌からの脱出

金輸出再禁止と円安利用

犬養毅内閣|1931年12月~1932年5月

1931年に成立した犬養毅内閣の蔵相高橋是清これきよは、再度の金輸出禁止と円の金兌換だかん停止を断行しました。
結果、日本経済は金本位制ではなく、政府が通貨発行額を管理・統制する管理通貨 制度に移行しました。

高橋是清
この頃、円の為替相場は100円が20ドルを下回ることもありました。
この大幅な円安を背景に、日本の産業は、飛躍的に輸出を伸ばしました。
特に綿織物の輸出は、イギリスを抜いて世界第1位となりました。

綿織物の生産量と輸出量
一方、日本の輸入は綿花・石油・くず鉄・機械などにおいて、アメリカへの依存度を高めていった。

輸入の対米依存(石油)

輸入の対米依存(鉄類)

ブロック経済と日本非難

世界恐慌からの脱出のため、欧米は排他的なブロック経済圏を形成しました。
例えばイギリスは、本国と植民地以外からの輸入に高い関税をかけ、商品の生産・消費を本国と植民地で完結させる政策をとりました。
円安のために、日本は欧米のブロック経済圏にも輸出を拡大できました。
欧米は、これを国ぐるみの投げ売り(ソーシャル=ダンピング)と非難しました。
ソーシャル=ダンピング
国際価格よりも不当に安い価格での商品輸出

ブロック経済と日本

恐慌脱出と産業構造の変化

日本は、輸出の躍進や財政の膨張に支えられ、1933年、工業全体の生産額が、世界恐慌以前の生産水準に戻りました。
1933年、金属・機械・化学工業合計の生産額が、繊維工業を上回りました。
1938年、それらの工業は、工業全体の生産額の50%を超え、産業構造が軽工業中心から重化学工業中心へと変化しました。

重化学工業の発達

重化学工業の発達

重化学工業の発達には、国策に支えられた次の会社・財閥が貢献しました。
新興財閥
これらに対し、明治以来の財閥を既成財閥と呼称
日産
日産自動車・日立製作所からなる日産コンツェルンを結成し、満州へ進出
日窒
日本窒素会社を母体に日窒コンツェルンを結成し、朝鮮で水力発電を開発
日産ダットサン14型 1935年、本格的なベルトコンベアによる自動車の生産が始まりました。その車が、ダットサンです。

既成財閥と新興財閥の違い

農村の救済

斎藤実内閣|1932年5月~1934年7月

昭和恐慌による農村の困窮を背景に、農村救済請願運動が高まりました。
斎藤実内閣は、1932年から時局匡救じきょくきょうきゅう事業 と称して公共土木事業をおこない、農民を日雇い労働に雇用して現金収入を得させました。
さらに同内閣は、農村の窮乏を農村自身の力で救済するため、農山漁村経済更生運動を進め、産業組合の拡充して農民の結束を図りました。

思想の収束

転向

満州事変を契機に、日本国内の世論・マスコミは戦争熱に浮かされました。
弾圧と相まって、社会主義・共産主義者がその思想を捨てる転向が発生しました。

社会主義から

1932年、赤松克麿かつまろが中心となって日本国家社会党を結成しました。
この党は、資本主義の問題を国家政策(戦争など)で解決する国家社会主義を掲げました。
従来の社会主義勢力は、社会大衆党を結成したが、やがて国家社会主義に傾きました。
国家社会主義
従来の社会主義と違い、現国家体制(天皇制)の否定しない立場

社会主義の分裂
1937年、社会主義を守り続けた鈴木茂三郎らの日本無産党も、活動を停止しました。

共産主義から

1933年、獄中の日本共産党幹部の佐野学・鍋山貞親が、現国家体制を支持する転向声明書を発表しました。
この声明を契機に、獄中の日本共産党党員の大半が転向しました。

転向を伝える新聞

思想と言論の取締り

社会主義・共産主義だけでなく、自由主義・民主主義的な学問への弾圧も起こりました。

斎藤実内閣|1932年5月~1934年7月

1933年、滝川事件
自由主義的刑法学説を唱えていた京都帝国大学教授滝川幸辰ゆきとき が、文相鳩山一郎の圧力で休職処分とされ、また、著作『刑法読本 』が発禁になった事件
同大学法学部教授会が全員辞表を提出して抵抗した敗北

滝川幸辰