二・二六事件と近衛の登場

表記について
概要
1936年、軍部の青年将校が国政の心臓部を占拠し、暫定内閣の樹立を目指しました。二・二六事件です。事件は鎮圧されましたが、軍部がいつでも実力行使できるという事実は、軍部の政治的台頭を許しました。この後、圧力に屈した内閣が、軍部大臣現役武官制を復活させると、軍部は内閣に対する生殺与奪の権を有することになりました。

軍部の政治的台頭

二・二六事件と軍の実力

岡田啓介内閣|1934年7月~1936年3月

穏健派の海軍大将斎藤まこと による内閣の後を継ぎ、1934年、穏健派の海軍大将岡田啓介けいすけ が、内閣を組織しました。

岡田啓介
1932年の五・一五事件後、国内政治に対する政党の影響力が小さくなる一方で、軍部や右翼が台頭し、これに一部の官僚・政党人が同調しました。
彼らは、海軍穏健派内閣が2代続いたことに、不満を募らせていました。
1934年、陸軍省が「国防の本義とその強化の提唱 」と題するパンフレットを発行し、その中で政治に関する軍部の意向を示して大きな反響を呼びました。

陸軍パンフレット
1935年、貴族院議員で軍出身の菊池武夫たけおが、美濃部達吉みのべたつきちの憲法学説天皇機関説を反国体思想と非難しました。
天皇機関説は、上杉慎吉しんきち の天皇主権説と対立しつつも、憲法解釈の定説とされていましたが、この非難で一挙に政治問題化しました。
革新を望む軍部・右翼・立憲政友会の一部が、天皇機関説排撃に立ち上がりました。
岡田啓介首相は、譲歩に追い込まれ、国体明徴声明を出して天皇機関説を否定しました。

美濃部達吉

菊池武夫
この頃、政治的発言力を増した陸軍の内部で、次の2派が対立していました。
1935年、永田事件
皇道派の相沢三郎が統制派の永田鉄山を刺殺した事件

永田鉄山
1936年2月、二・二六事件
皇道派の青年将校らが、北一輝きたいっきの思想の影響を受けて挙兵した事件
内大臣斎藤まこと・蔵相高橋是清これきよ・教育総監渡辺錠太郎じょうたろう を殺害、首相官邸・警視庁などを占拠し、皇道派の暫定内閣の樹立を画策
戒厳かいげん 令が布告され、天皇の厳罰指示で青年将校らを反乱軍として鎮圧
事件後、疲弊した内閣は総辞職し、また、統制派が陸軍の主導権を握りました。
事件が軍部の力を見せつける結果となり、軍部の発言力がさらに強まりました。

二・二六事件
*市街行進中の反乱軍

国防方針の変更

岡田啓介内閣|1934年7月~1936年3月

1934年、岡田啓介けいすけ 内閣は、次の海軍軍縮条約の廃棄を余儀なくされました。

広田弘毅内閣|1936年3月~1937年1月

1936年、軍の要望実現を約すことで、広田弘毅こうき 内閣がかろうじて成立しました。

広田弘毅
1936年、軍部大臣現役武官制復活
現役の武官である大将・中将から、陸・海軍大臣を任用する制度
復活とは、1913年に予備・後備役まで拡大した任用資格を戻したこと
同年、ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン海軍軍縮条約が廃棄から2年の有効期間を経て失効するため、内閣は、陸海軍の帝国国防方針の改定に基づき、「国策の基準」を決めました。
外交ではドイツと提携を強めてソ連に対抗し、国内では大建艦計画を推進しました。
国策の基準
対ソ連に備える北進論と資源確保に東南アジアに進出する南進論を折衷

戦艦大和
戦艦大和(竣工:1941年)
軍縮条約失効後に建造された戦艦で、今日においても排水量・主砲口径ともに世界最大級。全長263m。威力を発揮できないまま、沖縄戦への出撃の途中で轟沈。
1936年、日独防共協定調印
共産主義の拡大を進めるソ連に対抗するため、日本とドイツが結んだ協定

日独防共協定の調印
内閣は、改革の不徹底を批判する軍部と、軍拡に反対する政党の双方の反発を受け、1937年に総辞職しました。

近衛文麿の登場

流産と短命

宇垣一成流産内閣|1937年1月~1937年2月

1937年1月、穏健派の陸軍大将宇垣一成うがきかずしげが、次の首相に推薦されました。
しかし、宇垣一成は穏健を嫌った陸軍から陸軍大臣の推挙を得られず、内閣を組織できませんでした。
宇垣一成
加藤高明内閣の陸相時に、軍縮や中等学校以上での軍事教練を実施

宇垣一成

林銑十郎内閣|1937年2月~1937年6月

組閣の失敗を受け、1937年2月、陸軍大将林銑十郎せんじゅうろうが内閣を組織しました。
内閣は、蔵相に軍部と財界の協力「軍財抱合」を進めさせましたが、総選挙で野党に大敗して総辞職しました。

林銑十郎

首相への熱狂的期待

第1次近衛文麿内閣|1937年6月~1939年1月

1937年6月、貴族院議長近衛文麿このえふみまろ が、内閣を組織しました。
近衛文麿は、若さ・家柄や軍人出でも官僚上りでも政党人でもない点で、未知の魅力にあふれた人物と映り、軍部から一般民衆までの広い期待を集めました。

近衛文麿