概要
1937年7月7日、日本軍と中国国民党(国民政府)の軍が、偶発的な衝突を起こしました。これを機に対日抗戦論が沸騰したため、両軍は衝突を繰り返しました。第1次近衛文麿内閣は、兵力の増派という断固たる態度をとれば、国民政府側が短期間に屈服すると期待しました。しかし、この増派が泥沼化する全面戦争の幕開けでした。
表記について

枢軸国の登場

秩序維持の両輪

第一次世界大戦後の世界秩序は、次の2つから構成・維持されていました。
しかし、一部の国は、両体制で不利な立場を強いられ、不満を募らせていました。
世界恐慌後、不満を抱くドイツ・イタリア・日本は、体制を揺さぶり始めました。
1936年、ドイツ・イタリアは連帯し、米・英への対抗勢力「枢軸」となりました。

ドイツ

イタリア

孤立と防共の結束

1928~1932年、ソ連は急速に国力を強め、他国へ共産主義の影響を与えました。

広田弘毅内閣|1936年3月~1937年1月

1936年、日独防共協定調印
共産主義の拡大を進めるソ連に対抗するため、日本とドイツが結んだ協定

第1次近衛文麿内閣|1937年6月~1939年1月

1937年、日独伊三国防共協定調印
国際に孤立する日本・ドイツ・イタリアが、対ソ連の立場で結束した協定

防共協定の目的

日中戦争

華北分離

1933年の塘沽タンクー 停戦協定後、関東軍は、満州国のさらなる緩衝地帯を求めました。
関東軍は、国民政府の統治から中国華北を切り離す政策華北分離工作を進め、1935年、華北に傀儡かいらい政権である冀東きとう 防共自治委員会を樹立しました。
1936年、日本政府も華北分離工作を国策と決めました。

1930年代の中国
*楕円あたりが華北

共産党掃討の優先

中国国民党は、1927年に国民政府を樹立した後も、中国共産党との内戦を続けました。
猛攻を受けた中国共産党は、根拠地の瑞金ずいきんを放棄し、延安えんあんに移動(長征)しました。
日本の華北分離工作が進んでも、国民政府は中国共産党の掃討を優先しました。

2党の対立
日本軍は軽い皮膚病!
共産党は重い内臓疾患!

蔣介石
1936年、西安事件
中国共産党討伐の激励に西安に赴いた国民政府指導者蔣介石しょうかいせき が、張学良に監禁され、中国共産党との内戦停止と抗日協力を求めた事件

日中戦争の開戦

第1次近衛文麿内閣|1937年6月~1939年1月

1937年7月7日、盧溝橋ろこうきょう事件
北京駐兵中の日本軍と国民政府の軍が、偶発的に(?)衝突した事件
1901年の北京議定書に従い、諸外国は北京に駐兵

盧溝橋
盧溝橋事件自体の停戦は成立しましたが、その後も上海シャンハイ などで両軍は衝突しました。
近衛文麿このえふみまろ 内閣は、兵力の増派を決め、国民政府も抗戦を続けたので、両軍の衝突は、宣戦布告なしの全面戦争日中戦争に発展しました。
日中戦争
宣戦布告なしのため、終戦前は初め北支事変、ついで支那事変と呼称
1937年9月、国民政府は、抗日民族統一戦線という方針を固め、中国共産党との協力関係である第2次国共合作に踏み切りました。
1937年12月、日本軍が国民政府の首都南京なんきん を占領しましたが、国民政府は南京から漢口かんこう、さらに重慶 じゅうけい に移動して抗戦を続けました。
南京
占領時に、日本軍による一般住民虐殺南京事件が起きたとされるが、蔣介石はこれに一言も言及なし

日本軍を歓待する南京市民

諸外国の疑心暗鬼と援蒋

米・英は、戦火を拡大する日本に「中国侵略の意志あり」と疑いました。
米・英は、日本の弱体化と中国おける権益獲得・保全を目的に、様々な物資供給路援蔣えんしょう ルートで、国民政府を支援しました。

諸外国の援蔣
*矢印が援蔣の動き

アメリカの援蒋

レド公路(援蔣ルートの1つ)

ビルマ公路(援蔣ルートの1つ)
国民政府は、劣勢でありながらも、援蔣ルートで抗戦を続けられました。

交渉失敗と泥沼化

第1次近衛文麿内閣|1937年6月~1939年1月

開戦以来、日本はドイツの仲介で国民政府と和平交渉をおこなうも失敗しました。
1938年1月、近衛文麿首相は、「国民政府を対手あいてとせず」と声明し、国民政府との和平の道を閉ざしました。
中国各地への傀儡政権樹立と、これらと交渉して戦局収拾を目指す方針を示しました。
「国民政府を対手とせず」
これに下記の①②を加えた対中国声明を、近衛声明と総称

近衛文麿
日本は、戦局収拾のために、具体的に次の3つに取り組みました。
東亜新秩序
日本・満州国・中国が結束した相互扶助関係
汪兆銘(1885~1944)
徹底抗戦を貫く蒋介石に対して、抗戦による民衆の被害を憂い、蒋とたもとを分かちました。日本との和平を望み、「新国民政府」を樹立しました。戦後、裏切り者と罵られました。