概要
1936年の二・二六事件、翌年の盧溝橋事件が起きるなど、この頃には国内外が次第に騒がしくなりました。1930年代前半の社会主義・共産主義の弾圧と転向の増加と合わさり、文学界は1930年代後半に大きく変化しました。従来の文学作品とは別に、転向の経験を描く転向文学、そして開戦中の日中戦争を描く戦争文学が登場しました。
戦時下の文化
全体主義的な思想へ
日中戦争の開戦後、国体論・ナチズムの影響を受けた全体主義的な思想が主流となりました。
この思想は、東亜新秩序・大東亜共栄圏・統制経済などの論調を支えました。
国体論
天皇をいただく日本の国家体制の優秀性と永久性を主張する考え
ナチズム
個人よりも民族・国家の利益を優先し、対外侵略をおこなうナチスの思想
文学界の変化
昭和初期
次の文学が、昭和初期の文学界の二大潮流でした。
日中戦争の開戦後
1930年代前半の社会主義の弾圧でプロレタリア文学は壊滅していき、また、日中戦争が開戦したことで、文学界には次のような文学が現れました。
戦争文学
従軍体験など戦争を主題とする作品
従軍体験を記録した火野葦平の『麦と兵隊』、兵士の実態を描き発禁となった石川達三の『生きてゐる兵隊』
『麦と兵隊』
石川達三
文学活動による戦争協力をおこなう国策的文学者団体日本文学報国会や、徳富蘇峰を会長とした文化人の国策協力団体大日本言論報国会が結成されました。
教育
1941年、小学校が国民学校と改称され、「忠君愛国」の教育が推進されました。
朝鮮・台湾で神社参拝や日本語の使用を強制する同化政策皇民化政策がとられ、また、朝鮮の人々の要求に応えて、姓名を日本式とする創氏改名を届出させました。
国民学校
国民全般が漏れなく学ぶことを教育することを強調
創氏改名の案内
戦時下で創作を続けた画家―松本竣介
戦時下、画家もまた、軍部や内閣の意向に沿う作品を生み出しました。しかし、松本竣介は「腹の底まあで染みこんだ肉体化した絵しか描けぬ」と抵抗を続けました。下図「立てる像」には、暗い時代に両足で踏ん張って立つ青年が描かれています。これは松本の自画像とも見て取れます。