概要
日本で統制の歯車がきしみながら回転数をあげている最中、1939年、第二次世界大戦が始まりました。ドイツの快進撃の報は、日本の外交判断に大きな影響をもたらしました。以前から提案されていたドイツとの軍事同盟に応じ、その軍事的威圧でもって、日中戦争の継続で硬化の一途を辿る米・英の態度を軟化させようと考え始めました。
欧州情勢の急変
複雑怪奇
第1次近衛文麿内閣|1937年6月~1939年1月
1938年、
張鼓峰事件
満州国とソ連の国境不明確地帯張鼓峰
で、日本軍とソ連軍が衝突した事件
日ソ関係が悪化する中、ドイツは、日独伊三国防共協定を強化し、ソ連に加え英・仏を仮想敵国とする軍事同盟を提案していました。
第1次近衛文麿内閣は、この問題の処理に自信がなく、総辞職を決意しました。
満・蒙・ソの国境
平沼騏一郎内閣|1939年1月~1939年8月
1939年、枢密院議長平沼騏一郎
が、内閣を組織しました。
平沼騏一郎内閣では、軍事同盟の締結をめぐって対立が生じました。
欧州情勢は複雑怪奇!
平沼騏一郎
締結を悩む中、同時期に起きた次の2つの出来事は、平沼騏一郎内閣を困惑させました。
平沼騏一郎内閣は、国際情勢の複雑さに対応する自信を失って総辞職しました。
複雑怪奇な欧州情勢
大戦勃発と不介入方針
阿部信行内閣|1939年8月~1940年1月
1939年、陸軍大将の阿部信行が、内閣を組織しました。
阿部信行
1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻すると、英・仏はドイツに宣戦し、ここに第二次世界大戦が始まりました。
この時点で、ドイツとの軍事同盟の締結は、日本の第二次世界大戦参戦を意味しました。
阿部信行内閣は、締結を回避し、第二次世界大戦不介入の方針をとりました。
米内光政内閣|1940年1月~1940年7月
1940年、海軍大将の米内光政
が、内閣を組織しました。
米内光政内閣も、締結の回避と第二次世界大戦不介入の方針を継承しましたが、軍事同盟の締結を推す陸軍が大臣の推薦を拒否したため総辞職しました。
1940年、軍部批判がしにくい状況下で、立憲民政党議員の斎藤隆夫が、日中戦争を批判する反軍演説を行い、軍部の圧力により議員を除名
米内光政
斎藤隆夫
日独伊三国同盟
南進政策
日中戦争開戦後、日本は、日本を中心とするブロック経済圏「円ブロック」に、中国における日本軍の占領地域を組み入れていきました。
しかし、日本が戦争継続のために必要な軍需資源は、円ブロックで賄えず、欧米とその勢力圏からの輸入に頼るしかありませんでした。
円ブロック
植民地を含む日本の領土・満州、後に中国における日本の占領地も追加
円ブロック
アメリカは、中国おける権益・市場の獲得を狙っており、円ブロックのような自由貿易を妨げるブロック経済圏の拡大を警戒しました。
1939年7月、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を日本に通告しました。
1940年、日米通商航海条約が失効すると、日本の軍需資源の入手は、極めて困難になりました。
1940年、オランダ・フランスがドイツに降伏しました。
日本では、ドイツとの結びつきを強めて、東南アジアの蘭・仏の植民地に進出し、円ブロックに東南アジアを加えた経済圏大東亜共栄圏の建設を望む声が強まりました。
大東亜共栄圏で石油・ゴムなどの軍需資源をひとまず賄うことができ、また、南への進出は米・英による援蔣ルートを遮断するとも考えられました。
大東亜共栄圏の資源分布
仏印進駐と三国同盟
1940年、枢密院議長を退いた近衛文麿
は、ドイツ・イタリアに倣い、国民を総力戦体制に導くための新党の結成運動新体制運動を展開しました。
既成の政党は、結成予定の新党への参加を次々と表明していきました。
軍部も新体制運動に期待し、次期首相に主導者の近衛文麿を望むようになりました。
第2・3次近衛文麿内閣|1940年7月~1941年7月
軍部の期待に応え、1940年、近衛文麿が内閣を再度組織しました。
近衛文麿
近衛文麿内閣は、東南アジアへの進出(南進)の方針を決め、次の2つを実施しました。
日独伊三国同盟調印は、むしろ米との関係をより悪化させることとなり、米は、航空機用ガソリン・屑鉄の対日輸出を禁止しました。
結果、日本は資源の一層の獲得と日米交渉が必要となりました。
仏領インドシナ
予想される反応
日独伊三国同盟
1940年10月、新体制運動の結実として、全政党が解散し、大政翼賛会が結成されました。
大政翼賛会は、近衛文麿首相を総裁、都道府県知事を支部長とし、町内会・部落会など下部組織を多く抱えたため、当初構想した組織とは異なりました。
大政翼賛会の末端組織隣組は、回覧板での情報伝達や戦時の住民動員を担いました。
大政翼賛会