概要
ミッドウェー海戦における主力空母4隻の喪失は、海洋の主導権を大きく動揺させ、以後の戦局に甚大な影響をもたらしました。1943年9月、御前会議は絶対国防圏を設定して戦略守勢に転換するとともに、戦時体制を整備して軍事生産の拡大に努めました。しかし、その一角のサイパン島も陥落し、戦争の帰趨はほぼ決定しました。
戦局の転回
連合国と枢軸国
1941年12月、日本が対米宣戦した後、日独伊三国同盟に従い、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦しました。
アメリカは、大東亜戦争と第二次世界大戦を同時展開することになり、アメリカ・イギリス・ソ連などは連合国と呼ばれました。
対する日本・ドイツ・イタリアなどは枢軸
国と呼ばれました。
戦争の同時展開
快進撃の停止
東条英機内閣|1941年10月~1944年7月
連合国は、ドイツ打倒を第一とし、欧州への軍事力投入を優先しました。
このこともあり、日本軍は東南アジアから南太平洋の米領・英領・蘭領を、開戦後から半年ほどで軍政下におきました。
日本国民の多くは、序盤の連戦連勝に熱狂しました。
ドイツ上空を飛ぶ米国の爆撃機B-17
1942年4月、東条英機
内閣は、熱狂する国民の支持を頼りに、議会を完全に操縦するため、5年ぶりの総選挙翼賛選挙を実施しました。
内閣の援助を受けた推薦候補が、圧倒的多数の議席を獲得し、当選した者を中心に政治結社の翼賛政治会が結成されました。
結果、議会は内閣の提案に承認を与えるだけの存在となりました。
翼賛選挙のポスター
1942年6月、
ミッドウェー海戦
中部太平洋でおこなわれた、日・米の海軍機動部隊同士の戦い
日本連合艦隊の主力空母・艦載機・搭乗員が失われたことで、日本は制海・制空権を喪失し、以降海上・航空戦力で劣勢
炎上する空母「加賀」
回避行動中の空母「飛龍」
炎上する空母「飛龍」
国防圏の決定と崩壊
東条英機内閣|1941年10月~1944年7月
ミッドウェー海戦以降、劣勢に立った日本は、戦略の再検討を迫られました。
1943年9月30日、天皇臨席の下の最高会議である御前会議が開かれ、死守すべき防衛圏域「絶対国防圏」を決めました。
大東亜戦争(太線:日本軍の最大進出地域/破線:絶対国防圏)
1944年7月、マリアナ諸島のサイパン島陥落で絶対国防圏の一角が崩れ、その責任を負う形で東条英機内閣は総辞職しました。
サイパン島に上陸する米兵
占領地域での衝突
南方
当初、日本軍による東南アジアの占領は、解放軍として住民の歓迎を受けました。
しかし、日本軍は戦争遂行のための資材・労働力調達に追われ、次第に住民の反感・抵抗を招きました。
特に、多数の中国系住民(華僑)が住むシンガポール・マレーシアでは、日本軍は華僑の反日ゲリラに悩まされ、掃討作戦に踏み切りました。
シンガポール陥落を喜ぶ日本兵
シンガポール市街を行進する日本軍
シンガポールでゲリラをおこなう華僑
中国
中国共産党が抗日ゲリラ戦を展開したのに対し、日本軍も掃討作戦を実施し、は「焼きつくし・殺しつくし・奪いつくす作戦「三光作戦」と呼びました。
731部隊
部隊長石井四郎のもとで細菌戦に備えた研究をおこなった部隊で、捕虜を使った生体実験をしたとされるが証拠なし
東条英機内閣|1941年10月~1944年7月
1943年11月、
大東亜会議
満州国・汪兆銘政権・タイ・ビルマ・フィリピン・自由インドの代表を、東京に集めて開いた会議
目的は、「大東亜共栄圏」の結束の誇示と占領地域の戦争協力の確保
大東亜会議の代表者
右から、ビルマ・満州国・汪兆銘政権・日本・タイ・フィリピン・自由インド