概要
絶対国防圏の崩壊後、サイパン島から飛来する米軍機の本土空襲が激化しました。衣食・その他の物資が不足していたところに、本土空襲が加わり、人々の厭戦気分が徐々に醸成されました。連合国は、戦争の裏で対日処理を討議し、ポツダム宣言という形で結実させました。原爆の投下を経て、日本は宣言を受諾し、敗戦を認めました。
国民生活の崩壊
総力戦
開戦後、日本は民需生産の工場を軍需工場へ転用し、軍需生産を優先しました。
また、国民に対しては生活の切り詰めと兵力・労働力の動員をおこないました。
1943年、学生を動員する次の2策が実施され始めました。
女子挺身隊
労働力不足を補うため、25歳以下の未婚の女性で組織した勤労団体
学徒出陣
勤労動員
勤労動員された女子挺身隊
品不足
制海・制空権の喪失で、軍需生産に必要な鉄鉱石・石炭・石油も欠乏しました。
代用燃料車
*木炭・薪を燃料に利用
1942年、物資不足のため、衣料の切符制(総合切符制)も始まりました。
また、米の配給量が減り、イモ・小麦などの代用品の割合が増えました。
総合切符制
切符制と違い、点数の載る切符を足し合わせて、物資と交換する制度
1942年、米穀確保を目的に食糧管理法が制定され、戦後米作保護に機能
空襲の激化
1944年のサイパン島陥落以降、同島からの米軍機で、本土空襲が本格化しました。
空襲は、軍需工場の破壊から戦意喪失のための都市爆撃へと次第に変わりました。
都市で、防空壕の掘削、工場の移転、生徒の集団疎開学童疎開が始まりました。
B29の爆撃
敗戦
玉砕覚悟の戦闘
小磯国昭内閣|1944年7月~1945年4月
1944年7月、陸軍大将小磯国昭
が首相、海軍大将米内光政が副首相格の、陸海軍の連立内閣が組織されました。
小磯国昭
1944年10月、レイテ島海戦
米軍のレイテ島上陸作戦を阻止するため、日本海軍がおこなった海上戦
海軍が、神風特別攻撃隊(特攻隊)による体当たり攻撃をはじめて実施
空母エセックスに特攻する艦上爆撃機「彗星」
特攻を見送る女学生
1945年2~3月、硫黄の戦い
サイパン島から東京へ向かう中継基地とするため、米軍が硫黄島を奪取
硫黄島の星条旗
1945年3月10日、
東京大空襲
B29約300機が、東京の下町へ2時間半にわたっておこなった焼夷弾爆撃
空襲を受ける東京市街
1945年4月、
沖縄戦開始
米軍が沖縄本島に上陸して日本守備軍と戦闘し、島民も巻き込まれて犠牲者多数
男子中学生の鉄血勤皇隊やひめゆり隊など女学生の看護要員が多数犠牲
沖縄本島に上陸中のアメリカ軍
沖縄戦で捕虜となった少年兵
小磯国昭内閣は、米軍の沖縄上陸で今後の見通しを失い、総辞職しました。
対日処理の会談と宣言
1943年11月、
カイロ宣言
米大統領フランクリン=ローズヴェルト・英首相チャーチル・国民政府主席蔣介石が集まり、発表した対日戦遂行・処理案
対日戦終了後の満州・台湾の返還や朝鮮の独立などを宣言
1945年2月、
ヤルタ会談
米ローズヴェルト・英チャーチル・ソ連最高権力者スターリンがおこなった会談
結ばれたヤルタ秘密協定の内容は、①ドイツ降伏後3ヶ月以内にソ連の対日参戦②ソ連への南樺太の返還および千島列島の譲渡
ヤルタ会談
1945年7月、
ポツダム宣言
米・英・ソによる対日処理の討議結果を、米・英・中3国の名で発表した宣言
終戦条件は、無条件降伏、戦争犯罪人の厳罰など(国体護持の保証は言及なし)
ポツダム会談
敗戦
鈴木貫太郎内閣|1945年4月~1945年8月
小磯内閣の総辞職後、鈴木貫太郎
が内閣を組織しました。
鈴木貫太郎
1945年5月、ドイツが無条件降伏しました(イタリアの降伏は1943年9月)。
日本の軍部は本土決戦を叫び、鈴木貫太郎内閣はソ連に和平交渉の仲介を計画しました。
アメリカは、7月のポツダム宣言に対する日本の反応を「拒否」と捉えました。
1945年8月、米国は、広島
・長崎
に原子爆弾を投下しました。
同月、ソ連が日ソ中立条約を無視して日本に宣戦し、満州・朝鮮・南樺太に侵入
8月9日の長崎
昭和天皇の「聖断」でポツダム宣言の受諾が決まり、8月14日、日本政府はこれを連合国に通告しました。
8月15日、天皇のラジオ放送「玉音放送」で戦争終結が全国民に発表されました。
玉音放送
東久邇宮稔彦内閣|1945年8月~1945年10月
1945年9月2日、降伏文書の調印(公式の終戦)
外相重光葵と梅津美治郎参謀総長が、米戦艦ミズーリ号の艦上で調印
降伏文書の調印