経済の混乱と労働運動

表記について
概要
戦後、将兵の復員や海外居留民の引揚げによって日本の人口が増加し、食糧・日常生活品が不足しました。これに加えて、戦後処理などで貨幣が増発されたことで、物価は激しく上昇しました。このような経済の混乱の中で、結成を奨励された労働組合が、労働運動を盛んに起こし始めました。そのため、内閣は経済の再建を急ぎました。

1946~48年の内閣

経済の再建政策

幣原喜重郎内閣|1945年10月~1946年5月

1946年2月、金融緊急措置令制定
流通中の旧円を強制的に預け入れさせ(預金封鎖)、新円にて一部引き出しを許可
貨幣流通量の減少、つまり物価上昇の抑制を狙ったが、効果は一時的でした

新円切り換え

第1次吉田茂内閣|1946年5月~1947年5月

1947年、基幹産業の石炭・鉄鋼の生産拡大を優先する傾斜生産方式を採用し、復興金融金庫を設立して資金・資材の供給を開始しました。

二・一ゼネストの中止

第1次吉田茂内閣|1946年5月~1947年5月

敗戦後、労働組合の結成が奨励され、民間企業の賃金の値上がりが実現しました。
物価上昇の進行のなか、賃金の値上げが遅れる公務員らは、その値上げを要求しました
吉田茂首相が運動指導者を「不逞ふていの輩」と非難し、大きな反発を招きました。
打倒吉田内閣を目指すゼネラル=ストライキ二・一ゼネスト)が、1947年2月1日に予定されましたが、GHQの中止命令で不発に終わりました
1948年、芦田均内閣が公布した政令201号で、公務員の争議行動禁止

吉田茂

ゼネスト中止を伝える伊井委員長

新憲法下初の内閣

1947年4月、新憲法下の新内閣を組織するため、衆参両議院議員選挙が実施されました。
日本社会党が、日本自由党・民主党を僅差で破り、衆議院第一党となりました。

片山哲内閣|1947年5月~1948年3月

日本社会党委員長片山哲が、新憲法下の初の首相に就任し、民主党・国民協同党との3党連立内閣を組織しました。
新内閣は、保守でも急進でもない「中道」とGHQから一定の評価を受けましたが、連立内閣ゆえの対立に悩まされ、炭鉱国家管理法案で揉めて総辞職しました。

片山哲

贈収賄事件による総辞職

芦田均内閣|1948年3月~1948年10月

民主党総裁芦田均あしだひとし が、日本社会党・国民協同党との3党連立内閣を組織しました。
しかし、復興金融金庫から不当融資を得た贈収賄事件昭和電工事件で総辞職しました。

芦田均