占領政策の転換

表記について
概要
当初の対日占領政策は、日本が再び脅威となることを防ぐために、「民主化・非軍事化」を推し進めました。ところが、アジアに共産主義化の動きが見られ始めると、日本の国力を高め、西側陣営側に取り込む必要が生じました。1940年代末、対日占領政策は大きく転換し、「自立化・復興・再軍備」を推し進めるようになりました。

戦後の国際政治

米ソの対立の鮮明化

第二次世界大戦後、アメリカは、資本主義的世界経済の再建を図りました。
一方で東欧諸国は、ソ連型の共産主義体制を樹立し、ソ連の衛星国化しました。
衛星国
1つの大国に地理的に近接し、支配または影響力を受ける中小国
1947年、米大統領トルーマンが、反ソ・反共の徹底によるソ連「封じ込め」政策の宣言トルーマン=ドクトリンを出しました。

トルーマン=ドクトリン
1947年、西欧諸国を復興させて、ソ連・東欧諸国に対抗しようと、欧州経済復興援助計画マーシャル=プランが打ち出されました。
これを契機に、アメリカを盟主とする西側(自由主義)陣営と、ソ連を盟主とする東側(共産主義)陣営の対立が鮮明になりました。

マーシャル

冷戦の開始

核武装した東西の両陣営は、それぞれに下の軍事的機構を結成し、「冷戦(冷たい戦争)」と呼ばれる対立状態を形成しました。

アメリカ

1949年、北大西洋条約機構(略称:NATO)結成
欧米12カ国が、共産主義陣営への対抗に組織した集団安全保障機構

西側陣営

ソ連

1955年、ワルシャワ条約機構結成
ソ連含む東欧諸国が、西側への対抗で組織した集団安全保障機構

東側陣営

東アジアでの米ソの対立

中国

ソ連に支援された中国共産党が、米国に支援された中国国民党との内戦に勝ち、1949年、中華人民共和国(主席:毛沢東)を成立させました。
1950年、中華人民共和国は中ソ友好同盟相互援助条約を締結し、東側陣営に加わりました。
一方、敗れた中国国民党は、台湾に逃れて中華民国を存続させました。

朝鮮

1948年、ソ連占領地域に朝鮮民主主義人民共和国(首相:金日成キムイルソン )が、米国占領地域に大韓民国(大統領:李承晩 イスンマン)が建国されました。

金日成

李承晩

占領政策の転換

「共産主義の防壁」

1948年、米軍人ロイヤルが、「日本は共産主義の防壁」と演説しました。
さらにケナンの提言をうけて、米国の対日政策は、日本の経済復興と再軍備に転換し、西側陣営の東アジアにおける主要友好国の立場を日本に期待しました。

占領政策の転換①―経済復興

第2次吉田茂内閣|1948年10月~1949年2月

占領政策の転換時期、民主自由党の総裁吉田しげる が、内閣を組織しました。
1949年の総選挙で、民主自由党は絶対多数の議席を獲得し、政権を安定させました。
民主自由党
日本自由党に民主党脱党者が加わって結成、1950年に自由党と改称

GHQのインフレ収束策
傾斜生産方式による巨額の資金投資で、日本国内にインフレが生じました。
1948年、経済安定九原則発表
日本のインフレ克服・経済復興のために、GHQが指示した計9項目の原則

不況と労働問題

第3次吉田茂内閣|1949年2月~1952年10月

吉田しげるが首相を続投し、内閣を組織しました。

インフレ収束と労働争議頻発
1949年、ドッジ=ライン指示
経済安定九原則の実施のために、銀行家ドッジが立案した具体策
吉田内閣は、ドッジ=ラインに従って赤字を許さない予算超均衡予算を編成し、財政支出(歳出)を極力抑制して インフレ収束にほぼ成功
1ドル=360円の単一為替レートを設定し、日本経済を国際経済に直結させて、国際競争の中で輸出振興に期待

ドッジ(右)
インフレ収束と労働争議頻発
インフレ収束の反動による不況は多くの失業者を生み、労働組合の訴えが頻発しました。
国鉄が職員の大量解雇を計画すると、国鉄労働組合が反対しました。
しかし、国鉄労働組合が次の3つ事件で嫌疑をかけられ、訴えは抑え込まれました。

下山事件

三鷹事件

松川事件
シャウプ勧告
1949年、シャウプを団長とする租税専門団が、税制改革を勧告しました。
勧告に従い、内閣は累進所得税制・直接税中心主義などを採用しました。