55年体制の成立

表記について
概要
サンフランシスコ平和条約の発効に伴い、GHQ制定の多くの法令が失効しました。吉田内閣は、アメリカの再軍備要求をうけながら、様々な政策と法整備を実施しました。しかし、一連の動きは、占領政策の成果を否定する「逆コース」と非難されました。その後、米国依存の是非をめぐって保守・革新が対立し、55年体制が成立しました。

多極化する国際情勢

冷戦の「雪どけ」と「再降雪」

ソ連独裁者スターリンの死後、フルシチョフが東西平和共存路線を打ち出しました。
1950年半ばに、米ソの東西対立の緩和「雪どけ」が一時期生じました。

フルシチョフ
大戦後、フランス軍がベトナム(仏領インドシナ)で占領を再開しました。
その後、フランス軍は1954年のインドシナ休戦協定により撤退しましたが、ベトナムでは南北分断状態で内戦が続きました。
1965~73年、ベトナム戦争
アメリカが、南ベトナムを支援して北への爆撃など軍事介入を始め、中ソが、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線を支援した戦争
戦争に際して、沖縄や日本本土の米軍基地が重要な拠点として機能

ナパーム弾

第三勢力の台頭

1955年、バンドン会議(アジア=アフリカ会議)
1954年に中国の周恩来しゅうおんらいとインドのネルーが結んだ平和原則をもとに、新興国家が平和共存・反植民地主義など「平和十原則」を決議した会議

周恩来とネルー

平和条約の発効後

吉田茂内閣による国内再編

第3~5次吉田茂内閣|1949年2月~1954年12月

社会運動の抑制
1952年5月1日、血のメーデー事件(皇居前広場事件)
警察予備隊や単独講和に反対するデモ隊が、使用不許可の皇居前広場に入り、警察部隊と衝突して多数の死傷者を出した事件

血のメーデー事件

デモ隊と警察部隊
1952年7月、破壊活動防止法
血のメーデー事件をきっかけに、暴力的破壊活動をおこなう団体の取締りを規定した法律
その調査機関が同年設置の公安調査庁

警察と教育の改革
1954年、新警察法
自治体警察を廃止し、警察庁指揮下の都道府県警察に一本化させた法律
1954年、教育二法
教員の政治活動を禁じた法律

アメリカからの防衛協力要求
1954年、MSA協定(日米相互防衛援助協定)
アメリカの援助を受けるかわりに、日本の自衛力増強を約した協定
1954年、自衛隊の発足
同年設置の防衛庁の統轄下に、保安隊・(海上)警備隊を統合し、陸・海・空の3隊で設置した組織
首相が最高指揮監督権をもち、防衛大臣が首相の指揮・監督のもと隊務を統轄
保安隊
講和条約発効後、警察予備隊を発展・強化させたもの

自衛隊の発足

「逆コース」や吉田茂への批判

第3~5次吉田茂内閣|1949年2月~1954年12月

吉田茂内閣の動きは、占領下の民主化・非軍事化を否定する「逆コース」だとして、社会党(左派・右派)・共産党・総評などの革新勢力から反発を受けました。

アメリカ軍基地反対闘争
1952年の石川県での内灘うちなだ 事件、1955年の東京都での砂川事件

砂川事件

砂川事件
原水爆禁止運動
1954年、第五福竜丸事件
中部太平洋ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で、福竜丸乗組員が被爆した事件
事件を契機に、原水爆禁止運動が拡大広島で第1回原水爆禁止世界大会の開催)

第五福竜丸

水爆の風刺映画
公職追放解除と贈収賄
公職追放解除で、鳩山一郎らが自由党に復党し、党内で吉田茂への反発が生じました。
1953~54年、造船疑獄事件
造船会社と政界有力者との贈収賄関係が暴露され、内閣への批判を強めた事件
自由党反吉田派が離脱し、鳩山一郎を総裁とする日本民主党が結成されました。
一連の動きをうけ、吉田茂内閣は退陣しました。

55年体制の成立

保守と革新

第1~3次鳩山一郎内閣|1954年12月~1956年12月

1954年、鳩山一郎が内閣を組織し、憲法改正・米国依存を主張しました(保守)。
一方、社会党左派は総評の支援を受け、憲法擁護・非武装を主張しました(革新)。
1955年の総選挙後、衆議院に占める保守・革新の割合は次のようになりました。
保守勢力:日本民主党と自由党の合流保守合同によって、鳩山一郎を総裁とする自由民主党が結成され、議席の3分の2獲得
革新勢力:社会党左派・社会党右派が再統一し、議席の3分の1獲得
保革対立のもとでの保守優位の政治体制55年体制が、以後40年近く続きました。

55年体制