概要
日米新安全保障条約をめぐる世論分裂をうけて登場した池田内閣は、所得倍増を旗印に、高度経済成長の追求を政策の中心に置きました。池田は、これを政治の世界に持ち込み、国民に1つの目標を示すことで、安保問題の傷跡の修復を図ろうとしました。この戦略は大きな成功を収め、佐藤栄作の保守安定政権への途が確立されました。
世論分裂から安定へ
55年体制開始の頃
第1~3次鳩山一郎内閣|1954年12月~1956年12月
保守合同後の第3次鳩山一郎内閣は、次の2つを実現しました。
日ソ共同宣言
石橋湛山内閣|1956年12月~1957年2月
石橋湛山内閣は、首相の病気で短命に終わりました。
石橋湛山
日米新時代と安保闘争
第1・2次岸信介内閣|1957年2月~1960年7月
1957年、岸信介
が内閣を組織し、内には革新勢力と対立しました。
岸信介は、外には「日米新時代」を唱えて一層の日米対等を目指しました。
岸信介
1960年、
日米相互協力及び安全保障条約(
新安保条約)調印
経済協力やアメリカの日本防衛義務の明文化を図った条約
付属文書で、米軍の日本および極東での軍事行動に関する事前協議を規定
革新勢力は、アメリカの軍事戦略に組み込まれると条約批准に反対しました。
1960年5月、条約批准が衆議院で可決されると、反対運動は一挙に高揚しました。
連日国会を取り巻く抗議安保闘争が、日本社会党主導で展開されました。
しかし、条約批准は参議院の議決を経ないまま自然成立しました。
安保闘争
所得倍増とLT貿易
第1~3次池田勇人内閣|1960年7月~1964年11月
1960年、池田勇人
が内閣を組織し、次の3つのスローガンを掲げました。
- 「寛容と忍耐」:革新勢力との真正面からの対立回避
- 「所得倍増」:10年後までに、国民総生産と国民所得を2倍
- 「政経分離」:政治問題(国交の有無など)よりも、経済的利益を優先
池田勇人
1962年、国交のない中華人民共和国との準政府間貿易「LT貿易」を決めました。
LT貿易
廖承志(L)・高碕達之助(T)両名の頭文字から命名
外交懸案の解決
第1~3佐藤栄作内閣|1964年11月~1972年7月
1964年から佐藤栄作が内閣を組織し、7年半以上の長期政権を実現しました。
佐藤栄作
大韓民国との国交回復
1965年、
日韓基本条約調印
日本と大韓民国(朴正煕政権)との間で調印された条約
日本が大韓民国を朝鮮半島唯一の合法政府と認め、両国の国交が樹立
戦前に関する賠償金問題が処理され、大韓民国側は請求権を放棄
被爆の経験
1967年、
非核三原則の方針決定
核兵器を「もたず、つくらず、もち込ませず」という方針
日本への返還
沖縄返還の署名運動
佐藤とニクソン
ニクソン=ショック
1971年、米大統領ニクソンは、金・ドル交換停止と為替レート変更を要求し、中国訪問計画も発表してニクソン=ショックと呼ばれる衝撃を世界に与えました。
この要求で、1ドル=360円から308円の円高の為替レートとなりました。
1973年、為替レートを固定する体制が崩れ、変動為替相場制へと移行
経済復興
朝鮮特需
日本経済は、ドッジ=ラインの実施の結果、深刻な不況となりました。
1950年からの朝鮮戦争は、米軍からの修理依頼・製品需要の拡大特需をもたらし、1950~53年に繊維や金属を中心とする特需景気が発生しました。
その間の1951年、日本の生産・消費などが戦前の水準まで回復しました。
特需
復興から経済成長へ
次のように、日本は1955年までに経済復興を成し遂げていきました。
- 1952年、IMF(国際通貨基金)に加盟し、為替を自由化
- 1955年、食糧不足のほぼ解消(7割の国民が「食べる心配」なしと解答)
- 1956年、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)に加盟し、貿易を自由化
- 1956年、日本の造船量がイギリスを抜いて世界第1位
1956年度『経済白書』に「もはや戦後ではない」との一文が記されました。
日本経済は、復興から技術革新による高度経済成長へと移行しました。