概要
平城京の魅力は既に失われており、桓武天皇の遷都決意は必然的な流れでした。遷都後も平安京の造営を段階的に進めていく一方で、桓武は予てより課題であった東北支配にも着手しました。桓武の2大事業「軍事と造作」は大変な人手を要しましたが、その後の行方はどうだったのでしょうか。ここに平安京が今日「未完の都」と称される所以があります。
軍事と造作
遷都の決意
天智系の光仁天皇に次いで、子の桓武天皇が即位しました。
桓武は次の3点が平城京の問題であると考えました。
- 平城京は天武系の都
- 平城京の仏教勢力の台頭と弊害(道鏡の政治介入など)
- 水上交通に不便な立地(大きな河川がない)
大和国を離れて、山背国へ遷都することを決めました。
桓武天皇
天武系と天智系
2度の遷都
784年、長岡京へ遷都
造営を主導した式家の藤原種継が暗殺されました。
早良親王が罪を疑われ、非業の死を遂げました。
親王の祟りか、疫病や飢饉が相次いだので、長岡京は放棄されました。
794年、平安京へ遷都
以降、鎌倉幕府が開かれるまでを平安時代と呼びます。
和気清麻呂の意見で遷都し、遷都後に山背国を山城国に改名
遷都後も京は未完成で、残りの造営が段階的に進行
都と地理的条件
(斜線…難波津・琵琶湖、実線…淀川)
平安京
軍団の廃止―労働力確保
東北・九州を除き、諸国の軍団は次の3つの問題から廃止されました。
- 国司が自分たちの田地開墾のために私的に使役
- 重い負担のため、兵の質の低下が顕著
- 2大事業で農民の労働力が必要
軍団に代わり、郡司の子弟や有力農民を健児
に選出しました。
桓武の2大事業
桓武天皇は、諸国の農民を動員して次の2大事業に取り組みました。
- 軍事
蝦夷の平定事業
- 造作
平安京の造営事業
特に、東北地方の蝦夷平定は早急な課題でした。
780年(光仁天皇の御代)、伊治呰麻呂が多賀城を焼討ち
軍事―蝦夷平定
征東大使である紀古佐美は、蝦夷との戦いで大敗しました。
桓武天皇は、武勲をあげていた坂上田村麻呂を、征夷大将軍に任命しました。
坂上田村麻呂は次の3つを成し遂げました。
- 802年、蝦夷の族長阿弖流為を帰順(蝦夷平定の決定打)
- 802年、胆沢城を築き、多賀城から鎮守府を移転
- 803年、志波城を築城
征夷大将軍
蝦夷平定の総指揮官で、平定目的に臨時政府を展開可能
最終的な蝦夷平定は、嵯峨天皇の御代に文室綿麻呂
が達成
東北地方の軍事事業
坂上田村麻呂
私は渡来系の氏族「東漢氏」出身!では、東漢氏の祖は誰か?
文室綿麻呂
文室の「室」の字に注意!「屋」ではない。
清水寺の碑―阿弖流為
坂上田村麻呂は阿弖流為の器量を惜しみ、彼の助命を朝廷に嘆願しました。しかし、この願いは聞き入れられず、阿弖流為は処刑されました。このような経緯から、田村麻呂が創建した清水寺には阿弖流為の碑が置かれます。正確には、もう一人別の者の碑でもありますが、その者は不人気なのか教科書にさえ登場しません。
2大事業の中止
805年、桓武天皇は藤原緒嗣(式家)と菅野真道に、良い政治(徳政)とは何かを議論させました。
緒嗣は「天下の苦む所は、軍事と造作なり」と、2大事業中止を主張しました。
真道は造営の責任者であり、中止に反対しました。
桓武は緒嗣の意見を採用し、2大事業を中止しました。
この議論を徳政論争と呼称
軍事は後に方針が変更され、811年に文室綿麻呂が蝦夷平定
藤原緒嗣
菅野真道
史料
徳政論争
原文
勅有りて…天下の徳政を相論ぜしむ。時に緒嗣、議して云く、「方今
、天下の苦しむ所は、軍事と造作となり。此の両事を停むれば、百姓安んぜむ」といふ。真道、異議を確執して肯
へて聴さず。帝緒嗣の議を善しとしたまひて、即ち停廃に従はしむ。
現代語訳
桓武天皇は詔を出して、(藤原緒嗣と菅野真道に)徳政について議論させた。緒嗣は、「現在民衆を苦しめているのは蝦夷の平定事業と平安京の造営事業です。この二大事業を停止すれば、人々の苦しみはなくなります」と言った。真道は違う意見を主張して譲らなかった。桓武天皇は緒嗣の意見を採用し、二大事業を中止させた。
ポイント
- 「勅」「帝」が桓武天皇に関する用語であること
- 「軍事と造作」が「蝦夷平定と平安京造営」を指すこと
- 藤原緒嗣の意見が採用されたこと