概要
鎌倉時代の随筆として、鴨長明の『方丈記』が知られています。この随筆で、鴨長明は嵯峨天皇が平安京を都に定めたと述べています。平安京遷都は、794年に桓武天皇が決めたはず。これはどういうことでしょうか。教科書で曖昧に誤魔化される、非常に難解な「薬子の変」を詳細に見ることで、この謎を解明していきましょう。
二所朝廷
式家の思惑
式家の藤原種継が造営を主導した長岡京は、794年、平安京へ遷都が決まると打ち捨てられました。
種継の子藤原仲成、娘藤原薬子
にとって、平安京は父の事業を否定する都でした。
仲成と薬子は平城天皇(桓武天皇の子)の寵愛を受け、特に薬子は「内侍」となり、平城京への遷都に平城を突き動かしていきました。
二所朝廷―平城太上天皇と嵯峨天皇
平城天皇が病気のため、弟嵯峨天皇(桓武天皇の子)が即位しました。
藤原薬子が内侍として朝廷に残ったので、役割上次の2点が問題でした。
- 臣下の言葉を天皇に伝える(問題:伝える情報を選べる)
- 天皇の言葉を臣下に伝える(問題:太上天皇の命令のみ伝える)
平城太上天皇は薬子を通じて政治に介入し、二所朝廷という状況を生みました。
嵯峨は内侍とは別に蔵人頭
を創設し、北家の藤原冬嗣を任じました。
薬子・蔵人頭の役割
藤原冬嗣
810年、薬子の変(平城太上天皇の変)
平城太上天皇が平城京への遷都を宣言すると、嵯峨天皇が藤原冬嗣を通じて迅速に兵を出し、太上天皇側を封殺した事件
平城は出家し、仲成は射殺され、薬子は自殺
事件は次の3つの結果をもたらしました。
- 解決に貢献した冬嗣が嵯峨に重用されて、北家が台頭(式家は没落)
- 太上天皇と天皇の衝突回避のため、嵯峨は太上天皇の権限を制限
- 「都=平安京」の強調のため、嵯峨は平安京が「万代宮」と宣言
『方丈記』の一文
平安京への遷都を決めたのは桓武天皇でした。
薬子の変後、嵯峨天皇が平安京を「万代宮」と宣言したことで、後の人々は嵯峨が平安京を都と定めたと認識しました。
原文
大方、この京の初めを聞ける事は、嵯峨天皇の御時、都と定まりにけるより後、既に、四百
)余歳を経たり
現代語訳
だいたいこの京都(平安京)の始まりの様子を聞くと、嵯峨天皇の御代に、国の都と定まってから以後、もはや、400余年を経ている。
鴨長明