概要
701年、大宝律令の完成で日本は律令国家として再編されました。当初律令は上手く機能していました。国司はやる気に満ち、勧農に励んで口分田からの収穫を増やそうとしました。しかし、月日を経るなかで徐々に国司は不正を働き、律令が社会の変化に対応しきれなくなりました。朝廷は対応に追われるが、次第に修正不可能になっていきました。
律令の問題と不正の増加
有力農民の登場
律令制では、班田収授法に基づき口分田が配給されました。
当然口分田ごとの土地の質は異なります。
良質の口分田を得た農民は、豊かな収穫によって有力農民へと成長しました。
有力農民の登場
国司の不正行為
豊作凶作関係なく、国府の租による収入は一定です(1段=2束2把)。
国府は
出挙
という税に頼り、財源を増加させていきました。
出挙
国府の倉で保存する稲穂(米の種がついた状態)を、春に貸付け、秋に利息と一緒に徴収
利息5割とあまりに重いので、貸付け量には上限あり
出挙の仕組み
一部の国司は上限を超えて稲穂を貸付け、利息を着服しました。
時に国司は上限超えの分を回収できず、国府の倉の出納に誤差が生じました。
国司は上限超えの不正や出納の誤差を誤魔化せず、任期6年を終えて新任の国司と交代する時に揉めました。
国司は交代時に新任の国司から解由状をもらい、仕事に不備のなかったことを証明する必要がありました。
不正・誤差の増加で、解由状のやり取りが滞ってしまいました。
新任の国司と前任の国司
国司の交代を円滑に進めさせるため、桓武天皇は勘解由使を設けました。
勘解由使は第三者として前任と新任の揉め事を解決したり、新任が前任の不正を見逃していないか調査したりしました。
戸籍の崩壊
農民は調・庸・雑徭の負担を少なくし、また、口分田を長く手元に残したいと考えました。
国司は農民に調・庸の一部を貢がせ、見返りに次のような偽籍(虚偽の申告)を許しました。
- 男子を女子と偽る
…女子には調・庸・雑徭の負担なし
- 死者を高年齢の生者と偽る
…65歳超えに調・庸・雑徭の負担なし、口分田の収公延期
調・庸は、中央(朝廷)財源として納められる税
偽籍による調・庸などの未納で、中央財源は減っていきました。
税の流れ
偽籍への対応
偽籍で減少する財源に対して、中央は様々な対応をとりました。
負担の縮小
桓武天皇は農民の偽籍を減らすために、次の3点に取り組みました。
- 班田収授を6年1回から12年1回に変更
- 出挙の利息を5割から3割に変更
- 雑徭の期間を年間60日から30日に半減
田地の直営・収集
稲穂による財源確保のため、田地を収集・直営する動きが見られました。
- 823年、大宰府に直営の公営田
を設置
- 879年、畿内に中央政府直営の官田
を畿内に設置
- 天皇が直営の勅旨田を所有
- 院宮王臣家が田地を収集
京の問題対策
弾正台・五衛府では、増加する京の問題に対応しきれなくなりました。
嵯峨天皇は、天皇直属の検非違使を設け、京の問題を迅速に解決させて治安維持を図りました。
嵯峨天皇
検非違使
(伴善男の逮捕に向かう検非違使)
誰もが憧れた職―検非違使
平将門は、検非違使に憧れ、藤原忠平に希望を述べましたが、「若いな、そちは」と冷たく言い捨てられました。検非違使は、在任の捜査・逮捕、裁判・刑の執行などの権限をもち、容易に就ける職ではありませんでした。
律令の再整備
律令の補完
基本的に律令の条文には手が加えられず、必要に応じて次のような法令で補完しました。
- 格
律令の規定を補足・修正する法令
- 式
律令の或る規定をさらに細かく指示する法令
嵯峨天皇は格・式をまとめた弘仁格式を編纂させました。
9~10世紀、清和天皇が貞観格式、醍醐天皇が延喜格式を編纂させました。
弘仁格式・貞観格式・延喜格式は三代格式と総称されました。
語呂
嵯峨は盛(清和)大(醍醐)に、唐風を向(弘仁)上(貞観)へ(延喜)
難解な律令
令の解釈を間違えると一大事、ということで令の解説書などが作られました。
清原夏野
令に載らない役職
令に載らず、必要に応じて設けられた役職を令外官
と呼びます。
例えば、勘解由使・検非違使・蔵人頭などが該当します。